審判の日 非洗礼 205

「ウソ、でしょ?」

「ほんとに。この世界が滅ぶってときに自分の好きなひとと一緒にいられるなんてこれ以上ないことだし、それだけでラッキーって思ってるんだけどね」

 さきほどのミズキさんの告白が、今またここでくりかえされていると気がついた。彼にとってあの言葉は、ほんとうに本当のことだったのだ。

 ミズキさんの、これ以上なく静謐な、古拙の笑みの美しさに私の涙はとまっていた。驚愕という名の感動が喉許を襲い、熱い嗚咽をとめていた。私はそれを目にすることだけを欲し、けれどもその目にじぶんがうつっている事実に信じられないような、途轍もなく恐ろしいような気分になり、慌てて目をそらした。

 それから、そうして見つめられていることに耐えられず、目の前にそのままずっととどめおきたいような笑みがあった事実をどうしても受け止められなくて、私は頑なに自分の気持ちを吐き出して震えながら首をふった。

「私……そうは、思えない」

「うん。君はだって、こんな状態なのにぜんぜん諦めてないもの。君にお迎えが来るからそう思ってるわけでもなくて、何もかもを許せないって怒り狂って泣いてる。姫香ちゃんてほんと、強いよね。僕はまじめに惚れ直してる。だからね、君がたとえ僕を好きなわけじゃなくても、僕はどうしても君だけは生きていてもらいたいし、この滅びいく世界から抜け出して別の世界で幸福であってほしい。君には、用意された場所がある。そこへ行くまでの間、僕といっしょにいてほしい」

 唐突に、何かの啓示のように、わかった。理解が、できた。 

 このひとは、いつも本当のことだけ話している。彼が思うところの「真実」だけを頑なに伝えようとしていた。

 私はこのときになって、嘘をつかないでと乞われたことを思い出し、優しく、または熱っぽく、耳に流し込まれつづけた囁きが次々と、今になって礫のように胸を撃つ衝撃に身を震わせて痛みに耐えた。

 私は愚かだ。

 彼が今まで、本当に、ほんとうに、本当のこと、あまりにも不純物のない彼のなかの「事実」、それがひとによって「真実」と呼ばれるものであるところの心情や動機を私にだけ向けて口にしていることさえ気づかなかった。気づこうとしなかった。

 彼はまた、私が終始、誰の名前を呼んでいたか知っている。知っていて、そして、いまそれを告げるのだ。

 この時とばかりに。

「ねえ姫香ちゃん、君がずっと、心ひそかに、僕のことを誰かの身代わりにして、《じぶんだけのお姫様》だと思いこもうとしてたのは知ってるよ。そしてそれが誰だったかも想像がつく。それは、もう絶対に手に入らない相手だったはずだ」

 私は胸を衝かれて、思わず首をふりそうになった。是が非でも否定しなければいけないと思ったから。でも、それはあまりに不誠実な態度だったに違いないし、こうした思考そのものを見切られていること自体、私はとうに知り抜いていた。知り抜いていたからこそ、彼は、私をあんなふうに脅していうことを聞かせようとしたのだとも理解した。私が彼を本当には理解していなかったから。あるライン、彼がかつて誰にも見せようとしなかったそれ以上の姿を、つまりは浅倉くんにさえ知らせようとしなかった最奥を、私はそれと察しているふりで、彼がしてくれた行いの「意味」をまるで受け止めていなかったから。わかっていると言いながら何もわかろうとはしなかったから。私はそのことを優越感という名の自尊心と引き換えにし、その礼に、彼を好きだとくりかえし囁いた。だからこそ彼は苛立ち、嘆き悲しみ、粗暴さに訴えて私のこころを開かせようとして、遂にはそれにも失敗したのだ。浅倉くんの登場によってではなく、私の、私自身の強情さ、偏狭さ、傲慢さによって。

「君はだから、あのとき僕のところに来た。浅倉を手に入れて満足した君は、次に僕を身代わりにしようとしたんだよ」

「ミズキさん……」

 それは、確かな事実だった。

 私ははじめから、浅倉くんがじぶんのことを好きでいてくれると信じていた。逆にいえば、ミズキさんに身を寄せれば寄せるほど、彼が私に執着するとも気づいていた。その言質もとった。とったあと、ミズキさんへと奔ったのだ。計算してしたつもりはないと今さら言うのは卑怯だろう。本当の意味では計算しなかったからこそ、ズルイし卑怯なのだから。我ながら、どれだけ凄い悪女だと、あまりにも天晴れ過ぎて笑えるよ。これじゃ、あのマノン・レスコーも吃驚だ。

 そうして私が文学史上著名な悪女たちを思い出そうとした瞬間、

「ちょっと、待てよ」

 かつて聞いたことのないほど不機嫌な、浅倉くんの声が耳に届く。

「浅倉くん?」

「それ、なんのはなし、誰のことだよ」

 なんの、というか。

 獏のこと、だけど。

 私は息を潜めて青黒い顔をした男の顔をうかがいみた。もうすでに、そのときの私の肩は狭まり、不穏な空気におののいていた。それなのに、浅倉くんは自分の思いもよらなかった不都合にいきりたって目を吊り上げている。

「やだよ、それ。なんであんたを、そんなわけのわかんないモンにとられないとなんないんだよ。だったらオレじゃなくてもいいから、ミズキ、選んどけよ。命懸けて好きだって証明して、でも、人間じゃないからって理由だけで、なんでそんなヨソモンにあんた持ってかれなきゃいけないんだよ。やだよ、それ」

「え、と。そ、の……」

 私が不安をおさえつけ混乱しながらもかろうじて彼を見据え、必死で視線をあわせようとしていることさえも気づかないくらい、浅倉くんは怒りに囚われて不満を吐き出し続けている。

「あんたもあんただよ。なんだ、それ。はじめっからオレたち勝負の土俵にあがってないんじゃん。そんなのダメだろ。卑怯だよ。勝てっこないじゃん。オレたちがどれだけしたって、あんたのこと大事にして守ったって、それ、かなわないだろ。それを一緒くたにしようってのがチガウっつうの。なんだよそれ、ずりーだろ、馬鹿にしてるよ。そんなことする理由、あるの?」

「浅倉くん?」

 触れると血が吹き出そうに張り詰めて怒ってる。顔色が変わってるし目の焦点あってないし、がくがくと頭を揺らして物凄い早口でまくしたれられて、こわい。私が身を縮こまらせていることさえ気づかない。気づいてもくれない。

 ミズキさんが私の不安を察知してこちらになだめるような視線をよこすけど、これは、でも……ダメかも。いつもの浅倉くんなら私とミズキさんのアイコンタクトを見逃すはずがない。または見てないふりで目の端にとらえてる。そのくらいのことはしてた。なのに、今は私がこんなに怯えて震えてることにさえ気づかないんだから、ダメだ。

「オレは絶対、許さない。こっから逃げるっつうなら、オレを殺してから行けよ」

 殺してからって……。

 なに、言ってるの。

 そんな怖い顔してひとのこと見ないでよ。睨まれて息が出来ないって、どういうこと。なにこれ、これって……。

 スグニココカラ逃ゲダスベキダ。

 心臓が音をたてて逃避を促すのに、足が動かない。ていうか、無理。膝が震えてしゃがみこみそう。怖い。やだ、こわい。やだ、助けて。  

「浅倉」

 今にも倒れそうと感じた瞬間、ミズキさんがすっと間にわりこんだ。背中ではなく、横顔をみせる。立ちはだかるのは拙いとわかっている。少なくとも、ミズキさんはいつもと変わらず冷静だ。そのことに気づいて目をつむり、呼吸をどうにか整える。けれど、

「ミズキ、オレは認めない。おまえならいいけど、そんなわけわかんないものに掻っ攫われるのは許せない。それでいそいそ行こうとするこの人も、ほんと、腹立つっていうか、もう、いっそ、殺したくなる」

 ああ……。

 衝動的に叫びたくなるのを懸命に我慢する。ここで声をあげちゃ絶対にダメだ。そんなことしたら、みなが助からない。 

「浅倉」

「黙れよっ」

 吠えられたミズキさんが眉を寄せて彼をみた。彼でさえ、肩越しに私へ合図を送る余裕がない。全身で、浅倉くんの一挙手一動を見守っている。

「オレは絶対に行かせない」

 決然と言い切って私へ顔を向けた男へと、ミズキさんがいつもの、甘やかなテノールで遮った。

「浅倉、それはだめだ」

「なんでだよ」

 髪振り乱して問いを投げつけられながら、ミズキさんはあくまでも柔らかな声音を崩さず、否、さきほどより少し低い、けれどこれ以上なく聴き取りやすい明晰さでこたえた。 

「姫香ちゃんが生きられる道はそこしかないからだよ」

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