審判の日 非洗礼 204

ふと気づくと、外の喧騒が聞こえなくなっていた。先ほどまでやたらクラクションがなって叫び声が聞こえていたような気がするのに、どこか遠くで犬が狂ったように鳴き叫んでいた。そのことが何を意味するのか考えて頭をふる。

 それなのにこの部屋の主は口の端をつりあげて、私の泣き顔を舐めまわすように眺めてから言うのだ。

「甘えられるひとがいるから泣いてるだけだよね、姫香ちゃん」

「ミズキ」

 皮肉っぽい声に反応したのは私ではなく、浅倉くんのほうだった。険しい表情で椅子に座った相手を見据えた。ミズキさんは浅倉くんを気に留めるふうもなく、私だけをじっと見つめている。

「僕たちふたりは君がいなきゃ生きてけないけど、君は平気なんだから、今のうちに甘えとけばいいよ」

「そんな……」

 あてつけめいた口調ではなかったことで、私の抗議の声は弱まり、そこで途絶えた。彼特有の意地悪や揶揄で言っているのではないと知って戸惑いがやってきて、涙がとまる。すると彼は、泣き止んだ私には用がないとでも言うように腰をあげた。

「じゃ、僕はちょっと外の様子見てくるよ」

「オレも行く」

 浅倉くんは杖を置いて立ち上がった。

「浅倉は残って」

「いや、二人のほうがいいだろ」

 互いに頷きあったので、私は座ったまま声をあげた。

「何しにいくのっ」

 ミズキさんが頭だけ振り返り、こたえた。

「まだ体力があって物が残ってるうちに」

「だからっ、なんでそうなるの? それって略奪じゃない。犯罪だよ」

 ひとさまのものを盗むなんて、しかも力ずくで奪うなんてどうかしてる。さっきはああ言ったけど、そんなこと、現実で許されるとは思えない。

 そう言おうとしたところで、ミズキさんが十二分にわかっているというふうな顔をして私を瞳だけで制し、窓の外を一瞥してから厳かに述べた。

「姫香ちゃん、これが大地震や何処かの国との戦争だとでもいうのなら、僕だって文明人としてふるまうよ。隣近所と助け合って譲り合って、生き残る道を探す。でも、もう僕たちはそうはなれない」

「ウソ。この雨がやめば」

「やむとは、君は思ってない。いずれ水だって来なくなる」

「ミズキ。いいから行こう」

 浅倉くんがその腕をひいた。つかまれた腕をそのままに、ミズキさんは私の顔をみて、珍しく一瞬、どうしたらいいか考えるような顔をした。

「ミズキ」

 掠れ声で名前をよんだ浅倉くんはミズキさんが動かないと知るとその腕をはなして歩き始めた。

「浅倉くん!」

「あんたはいいから大人しくここにいろよ」

 こんなふうに言われて、私が黙っていられると思うのか。立ち上がって口を開こうとした瞬間、

「ここにいろって言ってんだろっ」

 怒鳴り声が炸裂した。

「浅倉」

 椅子に倒れこむように縮こまった私をミズキさんが視界のはしにとらえ、浅倉くんの興奮した横顔へと声をかける。

「大声を出すな。体力がもったいない」

「ミズキ」

 荒れた息のまま首をまげて名前をよんだ相手をみた。それから、血をのぼらせた頬を隠すように片手で顔を覆い、ああ、と頷いた。

 ミズキさんは私ではなく、浅倉くんが落ち着くのを待っている。その注視の意味を悟り、今度こそ腰をあげた私へと、彼はしばらく前から用意していたらしい言葉をぶつけてきた。

「姫香ちゃん、いま僕が言える見通しはひとつだけ。時任さんから電話があったのが一昨日だったよね」

「う、ん」

「それと、つい今」

 私は頷くのを躊躇いながら、彼が何を指し示そうとしているのか考えていた。ミズキさんはそれを察してうすく笑い、間をおいてゆっくりと口をひらく。

「姫香ちゃん、君は、少なくとも君だけは守られてる。天使が人間を滅ぼそうとしているのだとしても、君だけは例外だ」

「ミズキさん?」

「君だけは、助かる。この世界から抜け出せる」

 無意識に首をよこにふると、ミズキさんは眉を寄せて詰問する顔つきでくりかえした。

「天使は君のところにまた来るって言ったんでしょ? それに、さっきの電話も時任洞からだったんだよね?」

 それには肯いた。でないと、ちゃんと答えて大事なことだよ、と言われそうな勢いだった。私が認めたのを見てミズキさんはほっとした様子で息をつき、あらためて笑顔をつくりなおして告げたのだ。

「だから、その時までは僕たちに守らせて」

 なにを言われているのか理解するわけにはいかなかった。

 でも、私はそれをちゃんと確かに認めていた。前振りはいくつもあった。唐突なことじゃない。察しろと言われなくとも、筋道はつけられていた。

 けれど。

 だからといって。

 素直に飲み込めることじゃない。

 私は猛然と頭を揺らし否定した。全世界にノーを突きつけるつもりで頭をふった。

「絶対にぜったいに、死んでもイヤっ……」

 あ、あ…、

 死んでも……は、ウソだ。

 私はじぶんの言葉のそらぞらしさに笑うのでなく、泣いていた。横隔膜が引き攣れて捩れるほど、頑是無いこどものような声で泣き叫んでいた。

 ずっと、何かに選ばれていたかった。でも、それはこうじゃない。こんなんじゃない。自分ひとりだけ、助かるんじゃなくて、そういうんじゃなくて……

 何で、こんなことになっちゃったの?

 どうして。

 ひどい。

 獏が仕事をやめたら、私たちはすぐ滅ぶって言ってた。私、でも、辛いんならやめてもいいよって言ったのだ。だって、だって、獏が、彼女だけが我慢して、それでみんなうまく丸くおさまるって、なんだかとってもイヤだったんだもの。

 でも私……私が、あのとき、獏にちゃんとお願いしなかったから? 全人類を代表して、獏に、命乞いしなかったせいなの?

 そうじゃないよね。獏、私、あなたを信じてる。だから、これは獏のせいじゃない。ううん、彼女は助けようとしてくれていて、それで、力及ばなかったのかもしれない。

 ああ。じゃあ、私、獏のこと恨んじゃダメだ。憎んじゃダメだ。獏はやれるだけやってくれたんだから、それなのに、私はまだ、獏に助けて欲しいと思ってる。

 思ってしまってる……!

 ごめん、なさい。ごめんなさい。ごめんなさい。獏、ゆるして。

 獏は神様じゃないのに、私、どうして……。

「君、いま自分はなんて不幸なんだろうって思ってるね」

「……ミズキさん?」

 丸めた手の甲で涙をふいて、彼がうっすらと目を細めているその斜めの顔を仰ぎみた。

「僕は今、すごく幸せな気分」

 ことばどおり、彼は満ち足りた表情で私を見守り、ついで黙したままの浅倉くんにも視線を投げた。

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