審判の日 非洗礼 203

 そう感じたところで舌打ちが聞こえ、浅倉くんが足を進めた。そしてすぐ、立ち尽くしたままの私に気がついて引き返してきた。

「だいじょぶ?」

 あの、よく見慣れた表情でみおろされる。

「ミズキはあんなこと言ったけど」

「わかってる」

 穏やかに、目を見て、ほんの少し首をかたむけて微笑んだ。つくり笑顔には見えないはずだ。ウソはついてない。いまの今まで彼に心配されているのだと思っていたけれど、浅倉くんは、私が怯えている状態に耐えられないのだ。ならばこのくらいの意地は張るさ。強がっているわけじゃなくて、これがわたしの「守り」になる。

 それから部屋に入って、目を見開いた。仮眠室というより、ちゃんとした部屋だった。ロッカー、シングルベッドとソファベッドが向かい合わせの壁際におかれていて窓際には座り心地のよさそうな椅子があって、大きめのつくりつけの本棚の上半分は金で箔押しされた題名を刻む革張りの本で、下にはてんでばらばらに女性向けのファッション雑誌、文庫本やマンガまで乱雑に並んでいた。

 ダンボール箱をローテーブルのうえに置いたミズキさんが浪々と口にする。

「五人で一週間分の水と食料その他。三人だからすこしは余裕があるかな」

 大地震だったらそれでどうにか急場はしのげそうだったけれど、今度の場合は……。

 彼は椅子をひっぱって腰をおろして私のほうへ目をむけた。

「姫香ちゃん、そこのベッド使って横になりなよ」

「ううん」

「僕の眠剤のむ?」

「眠りたくない」

 浅倉くんが立ったままの私を抱いて、ベッドに並んで座った。ミズキさんは口をつぐみ、私の顔をじっと眺めた。まるで、私の言葉を待つように。そうして促されたと感じた瞬間、不安が口からついてでた。

「相談て、今後って、そんなのなんの見通しもないじゃない。宇宙船でも浮かんでればわかりやすいのにそんなのもないし、いつこの雨がやむかわからないし、水だっていつまで出るか、それに、人間だけ溶けちゃうような、そんな、そんなのふらされちゃって、どうすればいいの。なんにも、なんにもできないじゃない。ここにいつまでいればいいの? 篭城するにも今後のことなんて何ひとつ、ほんとうに何も、なんにもわからないんだよ?」

 早口でたたみかける自分の声にぞっとした。胸の内では冷静だと言いながら、声はあまりに細く、震えている。肉体の裏切りに慣れるにはまだ、私は日常を生きていて、制御不能の恨めしさにじぶんの身体を叩きそうになり、ひとの目があることでそれを辛うじて堪えた。

 けれども。

 コレは、侵略行為なのだ。

 災害でも戦争でも何でもない。人間には為す術がない。空から降るものをよける、ただそれだけのことをしかできない。

 そう考えたとたん、かるいパニックに襲われて叫びそうになった。堪え性のなさに自分の手の甲に無意識に爪を立てると、浅倉くんが私の両手をつよく握りこんだ。それを見たミズキさんが肩をすくめて、ゆるゆると頭をふって小さく笑った。そうしておもむろに顔をあげ、ちょっと首をかしげるあの仕種で私の注意を引きつけてから口にした。

「ひとつだけ、見通しはある」

「ミズキさん?」

「敵の正体はわからない。けれどこれは選別の儀式だと僕は思う。彼らにとって不必要だと思われる人間は一掃するつもりだ」

 あの天使は、そんな恐ろしい存在だっただろうか。そうじゃ、ない。と、思う。わからない。でも。

 時間がないって、片翼の天使が口にしていた。あんな切羽詰った顔で言われたのに、私は……。

 ああ、どうなってるの。

 獏。

 助けて。

 こわい。

 顔を覆って泣き出すと、

「姫香ちゃん?」

 ミズキさんが不思議そうに名前をよんだ。浅倉くんは私の頭に手をやって自分の肩に押しつける。その温かみは心地よかったけれど、でも、今はいらない。そう思ったはずなのに、私はのうのうと身体をあずけ、もうずっと前から慣れ親しんだものであったような革ジャケットの風合いと微かに漂う汗のにおいに抱き取られ、それに混じる湿布薬の違和感に慄きながら嗚咽が喉に押し寄せるまま背を撫でられている。

 アタマとカラダがばらばらで、じぶんで自分を制御できない。そう思っているはずなのに、でも、私はミズキさんの声をちゃんと聴くことができていた。

「姫香ちゃん、極端なはなし、君は僕を殺して食べてでも生き延びればいい」

「ミズキさん!」

 さすがに跳ね起きて振り返ると、

「それくらい覚悟を決めるといいよ」

 ミズキさんはほんとになんでもないような顔だった。それはまるで、私に絵をかけばと、やりたいならやれば、といったあのときと同じで、私はただ呆然と、こんなときでも変わらずに端正な顔を見つめた。

 すると、横で浅倉くんが口走った。

「……ミズキ、その場合は、オレのほうがいい」

「ふたりとも、なに言ってるのよ! そういうヘンなこと言わないでっ」

 このひとたち何をバカなこと言い出してるの。おかしいよ。けれども引き攣った声をあげた時点で、私もきっとオカシイのだ。

「でも姫香ちゃん、現実的にそういうことも有り得るんだよ」

「もうっ、だったら下のコンビニにでも略奪に行くわよ!」

「や、そこはもう略奪されてるよ」

 浅倉くんが淡々と何でもない声でこたえた。

「そういえば、ここのビルって」

「一階のコンビニ以外、オフィスしか入ってないから食料は期待できないね。あ、姫香ちゃん、おトイレもここでしてもらうからね」

 私が固まると、ミズキさんは頑として主導権を渡すつもりはないという顔つきで、確固たる自信をもって命じた。

「君は、外に出ないほうがいい」

 それはそうだろうし、出る気もないんだけど。と口にだすのも躊躇われたくらい、ミズキさんの中に溌剌とした何かが生まれていた。

 なんだこのひと。わけ、わからない。ほんとに。どうしてこの状況でそんな気合はいってて妙に冷静なの。ついてけないよ……。

 私が呆然と何を見るでもなくただ泣くのをこらえてる間に、彼は簡易トイレをどこに置くか悩んだようで、浅倉くんに尋ねた。衛生上とプライヴァシーの問題でお店に設置することになりそうで、私はおそるおそる低い声で抵抗した。

「だって、あそこ、ひとが」

「危険はなさそうだけど?」

「でも! だって、社員でしょ? さっきまで、だって……」

 亡骸とか遺骸とか、そういう言葉はつかいたくなかった。それなのに、

「姫香ちゃん、死体なんて、このビルの外にどのくらい転がってると思うの」

「いやあああ」

 耳を塞いで首をふると、ミズキさんが、ムンクの叫びみたいだなあ、とつぶやいた。浅倉くんは私の身体をぐいっと引き寄せて、おまえ、ほんといいかげんにしろよ、と呆れ声でいなした。

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