審判の日 非洗礼 200
家のほう、春日部はふってないってことは、ありえない、か。この時間なら父も母も弟も屋内にいるはずだけど。ああ。留美ちゃん、仙台はどうなってるだろう。彼女、外仕事だ。
耳を聾する雨音、それにかき消されない悲鳴。怒号。「巧妙な悪意」。人体の破砕イメージが次々と襲いきて、文字通り、目の前を金色に染めあげては暗転し、くりかえす瞬きに呼吸が狭まったがために消え去った。明滅のあいまにじぶんが見たものをさえ私は理解しておらず、ただ拒絶の声をあげるかわりに震えていた。
ああ、ダメだ。だめだめ。おかしい。どうなってるの。いったいぜんたいほんとうにどういうことなの。
「ねえ、なんで、電気まで切れちゃうの。どうして」
また震えだした私をみて、ミズキさんが言った。
「浅倉、僕は表の様子みて鍵閉めてくるから、彼女を落ち着かせてあげて」
「オレが行く」
「それは不許可」
にこりとミズキさんが笑った。そのまま 彼がドアのノブに手をかけたので、悲鳴のように名前を呼んだ。
「ミズキさんっ、や、ダメ、ここにいて!」
自分が何を言っているのか、自分でも、わからなかった。彼はいったん足を止めてこちらを振り返り、それはできないと言うかわりに首をふった。
「ミズキさん、これ、だめだよ。おかしいよ。ねえ、いったい、どうなってるの、ほんとに、どうなっちゃうのっ」
「だいじょうぶだよ」
浅倉くんにいつもの声でこたえられて、正気に戻った。だいじょうぶなわけ、ないじゃないかっ。この状態で、どうしてそんなこと言えるの?
「ウソ、絶対に、ウソ!」
続けざまに罵ろうとすると、浅倉くんが瞳を動かさず、ことさらゆっくりと口にした。
「あんただけは、何があろうと守る」
マモル?
守るって、そんな。
何があろうとって、そんなの絶対に無理だよ。なに平然としてるわけ?
「そんなこと、この状況でできるわけないじゃないっ。いいかげんなこと言わないでよ、もう、絶対にぜったいに信じらんない!」
そのとき、叫び声にかぶさるように侮蔑に満ちた声が届いた。
「姫香ちゃん、君らしくもない。浅倉はいいかげんは言ってないよ」
「ミズキ」
「浅倉、彼女を甘やかす必要はない。姫香ちゃん、状況判断ができてないのは君のほうだ。すこし冷静になるといい。まだ死ぬと決まったわけでもないのに」
死ぬ、という言葉を聞かされて、獏の声が甦ってきた。
さいごまであきらめないこと。
あの懐かしい声を思い出したら、私は、どうにかこうにか、気持ちをたてなおすことができた。このときのためにあの電話をくれたのだ。いまの着信もそう。それを思い出させるために違いない。
だいじょうぶ。まだ生きてる。だから、だいじょうぶ。
呼吸をしずめ震えをおさえ、私を見つめている相手が、今なにをしようとしていたのか考えた。
お店、か。
お店番の男の子、それにお客さんがいるかもしれない。キャッシャーの横には窓があるけど、他は密室状態なんだから、なにが起こったか知らないでいるかもしれない。
「待って。私も一緒に、行く」
浅倉くんは私の肩を抱いたまま、ミズキさんの顔を見た。
「ミズキ、そのほうが、いい」
お店は表通りに面している。たぶん、なにが起こっているのかちゃんと、わかるはずだ。
「しかたないね」
彼は大きく肩で息をついて納得した。
私たちは無言で歩き、ミズキさんがゆっくりとお店のドアを開けた。
雨音が。
リノリウムの床に打ちつける雨の音はひどくやわらかく、粘着質で、いやに重く聞こえた。
開け放された腰までの高さの窓のしたには、蜂蜜をこぼしたかのような塊が壁を伝いおりて床までどろりと流れていた。そのうえに吹き込む黄金の雨が小さな波紋をいくつもつくり、嵩をまして震えているように見えた。
「工藤……」
浅倉くんが踏み出そうとするのを、ミズキさんが右手で押しとどめた。
「だめだ。行くな」
そう言ったくせに、彼は前を見つめていた。それは周囲を探る視線だ。床に目を落とし、雨音の強弱を聞き分けていた。なにをするのか気がついた私が顔をあげた瞬間、
「ミズキ?」
浅倉くんも、彼の緊張を感じ取ってその腕をつかもうとした。けれどもミズキさんはひらりと身をかわす。
「鍵閉めてくるから、姫香ちゃんとここにいて」
「雨、吹き込んでるだろっ」
「あたらなければ平気だよ」
ミズキさんがそう言って、浅倉くんの顔を見てから私をみおろした。
「姫香ちゃん、ちょっとよけて」
ミズキさん?
疑問符が目の前で瞬くとともに、浅倉くんが仰向けにもんどりうって倒れていた。続いて何がどうなったのかわからなくて顔をあげたときには、ミズキさんは左手に松葉杖を持って窓辺へと歩みだしていた。
「ミズキさん!」
彼はキャッシャーの後ろを通り過ぎて足下を確認することもなく無造作に立った。浅倉くんが呻き声をあげながらおなかに手をあてて起き上がる。
窓に打ちつける雨はほとんどない。
彼はゆっくりと杖を持ち上げてサッシに先端をあてがい、軋ませながら押し、ガラス戸を閉めた。そうしてきちんと鍵までかけた。古いビルらしく、凝ったつくりではないそれは、杖の先で従順に回転し役目をはたす。
それから彼はまっすぐに商品陳列棚を突っ切って入り口まで行き、開いていたドアの外をうかがってから内側からロックした。そして、いちばん手前の机を引きずってドアに寄せて商品を手早く端に重ねて、脚立がわりの椅子を並べた。バリケードというほどのことでもないけれど、形にはなっていた。そのまま特にどうということもない顔で戻ってきて、レジを開けると現金を取り出して袋に入れ、何事もなかったかのように私たちを下がらせて、ここもまた鍵を閉めた。
すべて施錠しおわると、浅倉くんが恨みがましげに文句をつけた。
「おまえ、本気で蹴ったな」
「油断してるからだよ」
ミズキさんが鼻で笑った。一瞬の間のあと、浅倉くんは真顔になり言いづらそうに返す。
「……無茶、すんなよ」
「無茶はしてない。ちゃんと見ながら行ったよ」
ね、姫香ちゃん、とミズキさんは私へと艶やかな笑みをみせた。たしかにと、同意するわけにもいかなかった。だけど彼以外その役目を果たせるひとがいなかった事実を思えば、ここは頷いておいたほうがいいのかもしれない。そう考える頭のうえから現金袋が落ちてきた。
「君が、持ってて」
「ミズキさん?」
「貴金属じゃないから役に立たないかもしれないけど、ないよりマシでしょ」
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