審判の日 非洗礼 201

 彼はそれから私たちの横を足早に通りすぎた。

「ミズキ」

「水、汲んでくる」

「オレも行く」

「いや、ひとりのほうがいい。それより救急道具出して避難梯子点検しといて」

 ふたりの平坦な声のやりとりが却って私を不安にする。だからこそ、両手にポリバケツを持った背中に声をかけることができなくて、でも、彼は私の視線に気がついて振り返った。

「姫香ちゃんは、動かないで」

「でも」

「かわりに、どうやったら生き残れるか考えて」

「ミズキさん」

「君がいちばん、生き残りたいって思ってるはずだから。お願いね」

 彼はまるでお使いごとを頼むのと同じような調子でそれだけ言って、ドアの外に消えた。

 それでも日頃の神経質さもなく無造作に閉じられた扉を見つめ、私は「生き残りたい」と思っているのだろうかと考えるふりをした。ほんとはこのまま泣き伏して倒れたかった。けど、そうはいかないのだ。そうはいかないと思ってしまった時点で、私はもう、ここにしゃがみこんでくずおれたいという幼稚ではしたない願いを捨てないとならない。気づいてしまったことを無視してはいられない。

 でも。こわい。

 浅倉くんが遠慮がちに近づいてきて、そっと肩を抱いて私の顔をのぞきこんだ。

「ミズキはああ言ったけど、強がんなくていいから」

 たぶん、このひとはこう言うと思っていた。だから。

「浅倉くんは、こわくないの?」

「あんたがいれば、怖くない。っつうか、まあぶっちゃけ、かっこつけてるだけ」

 そうか。それならまあ、私にもかろうじてわからなくもなかった。だとしたら。

「でもじゃあ、なんで私だけ強がらなくてよくなっちゃうの? 足手まといはやっぱり迷惑だと思うよ?」

 浅倉くんの眉根がきつく寄せられた。私はそれを無視して続ける。

「ミズキさんだって、正直なところ、私にはなにも期待してないってことだよね? 浅倉くんには、自分が怪我させたからってことで負い目があるんだろうけど」

 彼は一瞬、真顔をつくって何かこたえようとしたみたいに見えたけれど、けっきょくはただの苦笑で感情をとじた。私はというと、浅倉くんはストレートで素直なようでちっともそうじゃないと、肩を落とす。ミズキさんは間違ってる。たぶん、三人のなかで私がいちばん正直に本音を語っているはずだ。

 だからというわけでもないけれど、私はずっと気になっていたことを問うてみた。

「足、痛くない?」

 しゃがんだ私に驚いて、彼も腰を落とした。

「え、や、ぜんぜん、平気」

 平気というしかこたえがないことくらい知っていて訊いた私は、これもまた、浅倉くんに甘えているのだと知っている。

「そう。ごめんね。怪我させたの私のせいかなって思ってて、でもミズキさんに対するやり方で浅倉くんに腹も立ててたりもしたんだけど、なんだかもう、どうでもよくなっちゃった。でも、こんな状況で怪我してるって不安だよね。ごめんなさい」

「や……それ、ええと」

 どこにどう反応すればいいのかわからなかったのだろう。私もどこに突っ込まれても困る気がした。謝ってすむ問題じゃないとは思っている。彼も、私がそう考えていることは理解してくれていると思うことにした。そうして口を噤みじっと黙っていると、彼は、はあっと大きく息を吐いて横をむいた。

「オレ、ほんとあんたに信頼されてない感じだね。つうか、信頼どころか信用もされてないか」

 それはさっきの言葉への返答かと気がついた。浅倉くんはゆっくりと腰をあげ、ロッカーへと歩きはじめた。その三本足の後姿はやはり、どうしても哀れに見えた。こんなときでなければそうは思わなかったかもしれない。でも、私はそう感じてしまっていた。

 しかも片手で扉を開けづらそうにしていた彼に、手伝うと言い出すだけの気力がない。気詰まりという重石が次々に脳天に落ちてきて、私は仕方なく言葉をついだ。

「浅倉くん、そうじゃないよ」

「いいよ。自業自得。ミズキのことであんたが怒る理由もわかるし、オレ、昨日の約束守れなくて失敗したし。ミズキはぜんぜん諦めてなくて、そのせいであんたに怖い思いさせたんだろうし」

 拗ねてるのか何なのか、振り向きもしない。たしかに約束は守られてないし、私自身も自分が仕出かした事とはいえそうとう酷い目にあったし、まあそれはほんとに私のせいだからいいけれど。浅倉くんがそうしたあれこれを反省してるといえば聞こえはいいけど、けっきょくは私からたんに逃げてるってことだ。今にして気づいたけど、そういえば、ここに来てからずっとミズキさんの独壇場で、浅倉くんはあまり喋っていなかった。このひとは、じぶんのことをちゃんと話すことがない。だとしたら、

「浅倉くん、あのね」

「いいよ」

「いいじゃなくて!」

 声を張りあげるとさすがにこちらへ向き直る。そう、それでいい。私は相手の視線をとらえて口をひらく。

「よくよく考えると前提から間違ってたって、さっき気づいたの。私がしてほしかった説得も、浅倉くんがしようとした懐柔も、けっきょく、相手を自分の思うとおりにしたいっていう我儘に根があることはおんなじで、ミズキさんが私を好きにしたいって思う気持ちとなんのかわりもなくて、ひとの気持ちを自由にできるなんて考える、ただの思い上がり、傲慢でしかない」

「……それで?」

「謙虚にも、なれないの。誰かのことを、何かのことを、ありのまま受け入れるってすごく難しい。それに、自分とミズキさんのことなのに浅倉くんを頼るのはおかしいって思ったから」

「だから……ここに、来た? オレに、任せられないから?」

 浅倉くんが一歩、こちらへ近づいた。なんだかプレッシャーをかけられているようだけど、膝に力をいれて首肯した。

「う、ん。ミズキさんが心配だったのもあるけど、自分のことなのに、ミズキさんを裏切ったその責めを負うのがこわくて浅倉くんに守られて安全なとこにいるのって卑怯だと思った」

「でもそれでミズキとやり直そうとしたんだよね」

 間髪いれない詰問にはさすがに閉口したけれど、それでも、ウソはつかないと決めている。

「そうだね」

「なんで。脅されたから?」

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