審判の日 非洗礼 199
その瞬間、なにかが圧力にたえきれず、破裂して、もうこれ以上とどめおくことのできないものがただひたすら噴出する、その快さを味わう自分がいた。
この地上に落ちる最初の雨のひとしずくを、私は、たしかに眼にうつし、なによりも身の最奥へとりこんだ。
音もなく
(そう、音はいらない)
風もなく
(風があっては無様にまがる)
光が、線になって、落ちきたる
金色の糸の軌跡を、それがやや重く、身もだえするもどかしさに満ちて下降する、ただその、あるかなしかの大気の抗いを受けて放つ煌きの繊細さ、たとえようもない揺れに、その震えの甘さに、心を奪われていた。
金色の雨
蜜のようにひた降る、甘美。
塔の上に閉じ込められたダナエを身籠らせた天帝は、このようなものに姿を変えたのだろうか……
濡れたい
喉許へせりあがる狂奔に弾かれて、真紅の踵がリノリウムを蹴って窓へと向かう。
ところが、ヒールの立てる音がふたつみっつ耳に届くや否や、ケータイの着信音が首の後ろを貫いた。視界を覆いつくす衝動に亀裂が走り、砕け散り、私は肩を震わせて立ち止まり、耳慣れたメロディが欲望を蹴散らした事実に肌を粟立たせて振り返る。
誰かに、何かに、邪魔をされた。
不満に喘ぎながらも、巨大な制止に戸惑うじぶんの鼓動が聞こえた。不整脈に似た躊躇いは、私に「止まれ」と告げている。
瞳はけれど、はしたなくも窓の外を本能的に追い求め、再びそちらへ向かおうとした。その途端、こんどはミズキさんの声があがる。
「姫香ちゃん! ダメだっ」
隣のビルの窓が開き、背広を着た男のひとが手を出して、そのまま金色に溶け落ちた。え、と思う間もないことで、でも、私の目はちゃんとその映像をとらえていた。
それなのに、自分の口から出ているのが悲鳴だと気づかなかった。ただ、やたら息苦しいと思っていただけで。浅倉くんに抱きこまれてどうにか悲鳴はやんだものの、続いて蛍光灯が消えて室内が暗くなったときにはまた叫びだしていた。
ぱらぱらと窓をうつのは、雨ではない。大量の砂金の粒をばら撒くような激しさで、地面に叩きつける黄金だった。さらに黄金の箭は容赦なく落ち来たり、狙いを定めてひとを討った。ビルとビルの谷間で、または街路樹の横で、庭の桜のそばで、パンプスの甲に黄金の飾りを見る暇もなく、葉擦れの音に耳をすます鼻先に、桜の花びらに手を伸ばした手のひらの真ん中で、黄金に溶けて蕩け散った。
私にそんなものを見せるのが誰か、そのときにはわからなかった。けれど、私は見ていた。否、感じとり認識し、何かをひたひたと蓄えて肥え太らせようとしていた。何かを。
「姫香ちゃんをしっかり捕まえといて」
ミズキさんの声にはっとする。
いつの間にか窓際に寄っていた彼はブラインドをおろし、引き出しからオペラグラスを取り出して、その隙間から外を見ていた。
「どんな……なの」
「君の、思ってる通りかな。外は見渡す限り死屍累々だ。綺麗だけど、ね」
綺麗、という言葉がこの場合どれほど不謹慎で、おぞましいものだか理解していながら、私も、美しい、と感じていた。
アスファルトのあちこちに、金色の水溜りができていた。裏通り特有のうらさびしさ、小さな看板やごみ置き場、古臭い自転車や雑然とした植え込みの印象を、雨は、砂金をばらまく豪奢でかきけしていた。
そのときもまだ、私はほんとうの〈異変〉に気づいていなかった。
「浅倉、ラジオつく?」
「無理だろ。電話、通じないし。っつうか、起ちあがらない」
ケータイを机のうえに放り出して口にした。見れば、パソコンの電源も落ちている。じゃあ、私のは?
浅倉くんの腕をはなれ、私は自分のバッグの口をあけた。
ケータイ。電池ある。つながってる。どうして?
着信履歴。
「……ときとうどう?」
時任洞。トキトウドウときとうどう。ああ、これ、それじゃあ獏、なの?
折り返しかけようと電話のマークを押しても呼び出し音さえしない。唇を噛み、アドレスを呼び出そうとしてキーがロックされてでもいるかのように操作不能なことに気がついた。
どういうこと。
どこにもかけられないの?
あちこち操作しようとしても何も、まったく、全然、動かない。どこをどう押そうが畳もうが開こうが、ウントモスントモいわない。なんで。どうして。おかしい。動かないなら動かないで、いっそ本当に壊れていてほしい。家の電話を、また母と弟の番号を押し、友人たちのアドレスを思い出そうとしながら、狂おしく指を動かして、こんな役立たずなことがあろうかと胸を締め付ける憤りに喉が苦しくて息が切れた。
「姫香ちゃん……」
ケータイを握り締め、憤怒にケモノじみた息遣いで肩を揺らしていた私は、慰撫するような労わりに満ちた声をかけられて我に返った。
「時任さんから?」
「……う、ん」
「そう。わかった」
ミズキさんは何事か悟ったふうで、深くうなずいた。
「ミズキさん、これ、どうなっちゃうの……これ、ここだけの異変なの、ねえ、これ、どういうことなの。なんで外がこんなに騒がしいの」
我ながら情けないほど頼りない声だったけど、でも、抑えられない。こわい。浅倉くんの両腕が前にまわる。背中に体温を感じても、膝の震えがおさまらない。頬に触れる浅倉くんの髪を無意識に手でかきやり、頭をふり、定まらない視界が涙にぼやけた。けれど、ミズキさんの両目に哀れみを通りこした悲しみを見て、私は喉が引き攣れそうな嗚咽をのみこんだ。だめだ。しっかりしなきゃ。胸のうちで呟いて、浅倉くんの腕に手のひらを這わせ、指が震えるのをなだめようとしっかり掴んで目を閉じる。
落ち着け。だいじょうぶだから。今は。
くたびれた革の手触りに意識を集中し、ここにあるモノをだけ感じようとする。縫い目を指の腹でおい、手のひらで撫で、そのいっぽう、じぶんの頭の後ろが冷たいことまで気がついた。
だいじょうぶ。まだ、生きてる。
ふっと息を吐いて目をあけると、ミズキさんと瞳があった。彼は、私の様子を見守ってのち、前髪をはらうようにゆるくかぶりをふって口をひらく。
「どうなるかは、僕にはわからない。ただ、この異変は自然現象ではなくて、人間だけ滅ぼしたい存在の巧妙な悪意だろうね」
「ミズキ。今はよせよ」
「そうだね」
ミズキさんが頷いた。
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