審判の日 悔悛 177
「それだけが、私の取り柄だから」
そうこたえながら、震えているのは自分でもわかっていた。支えられていなければ膝から落ちていきそうだった。そうして小刻みに震える指先を握られて、彼の頬に押し付けられた。
「……ごめんね」
謝るくらいなら、手をはなして欲しいと本気で思った。謝ればいいっていうものじゃないだろう、と口にしようとして、自分の指に濡れたものが触れて、あ、と声をあげた。
なにも泣きながら、ひとを欲しがらなくてもいいじゃないか。
そう、言いたくなったところで、
「好きになって、ごめんね」
くりかえされた。
このひとはかわいそうなお姫様じゃないと思い直したのに訂正できなくなりそうで、泣かれたくらいでこの状況に甘んじるのは間違っていると懸命に思おうとすると、その両腕がぐるりと胴にまわされた。
抱きしめられて唇を覆われながら、その身体の熱さに息があがる。私がイヤだと頭をふるとすぐ離すくせに、胸を押し返そうとするとそれは許さない。息継ぎのあいまにじっと見つめられ、その視線に行き場をなくして横をむくと開いた首筋に唇が落ちる。それで肩を震わすと頬をあわせるだけでゆっくりと背を撫で、こちらが緊張をとくと瞼にくちづけし、額から頬、耳の後ろへと指をはしらせた。
ずるい。
覆いかぶさってくれば拒絶の声をあげて押しのけられるのに。もっと強い力で拘束されれば、酷い、やめて、と大声で言えるのに。
ただでさえミズキさんの手は肌に金色の光をあてられているようでたまらなく気持ちいい。浅い呼吸の合間をぬって囁き声を耳に流し込むタイミングは絶妙で、その音にさえ刺激されてしまう。
それでも、反応しまいと堪える私を追い上げようとする強引さがミズキさんにはない。いくらでもそうできるのに、しない。といって焦らされているわけでもない。私に拒まれるのが嫌なだけだと、それだけは何があろうと嫌なのだと身体が訴えている。ひどく消極的なくせに貪欲で、堰きとめられた熱が指先に、掌に、唇に、皮膚の突端に凝っていて、哀願し希うことばの真摯さもあいまって、私を翻弄する。
見つめる視線にさえ熱を感じ、とうとう自分がすっかり目を閉じて彼の腕に取りすがっていることに気がついた。
た、助けて。
これは、これは絶対にだめ。
ここでしちゃうと絶対にまずい。ていうか、したくない。シタクナイ。
身体が勝手に奔りだす前に、どうしてダメなのか言わなくちゃ。
「ナオキ、さん」
彼が、あからさまに身じろぎした。けれど何もなかったかのように私の胴をつかんで抱き上げ、机のうえに横にして、そのまま頭の横に両手をついた。
「なに」
制止するためだけに名前を呼んだのだとわかったらしく、彼の声は不満に掠れていた。
「ほんとうに私を好きなの?」
「じゃなきゃこんな」
「欲しがってるのはわかる。私がこうして気持ちよくなってるのを見ればうれしいでしょうし満足もするだろうけど」
「僕はなにも性的なことだけで」
言葉の途中で頬に指がふれた。気がつくと、泣いていたらしい。さすがに涙までは制御できない。こころと身体をアタマで冷静にコントロールしているはずが、できていない。まあ、仕方ない。いまこの状態でパニクって悲鳴をあげていないだけ、自分はエライと思うことにして、いかにも優しげで、ひどく思いやりのある手つきで涙をぬぐった男の顔を見あげ、長いあいだ溜め込んでいた言葉を発することにした。
「だって、この今だって、ミズキさんは私だけを見てるんじゃない。つねに浅倉くんと比べてどうなのか、そればっかり。ほんとに、私だけが好きなわけじゃない」
予期しなかった強い声に、自分でも驚いた。これは、外に聞こえてしまったかもしれない。言われた相手もふいをつかれたように目を見開いていた。その顔を見たら余計、止まらなかった。
「浅倉くんだってそうよ。とられたくないってことばっかり。じゃあミズキさんを懐柔しないで、ほんとに捨てておけばいいじゃない。私がミズキさんに靡かないか心配して、先手をうったってことじゃないの? ちがう?」
ミズキさんは先ほどと違い、眉ひとつ動かさず私のうえに覆いかぶさったまま、頬に触れていた左手をそっと首のうえにおいた。ひっと喉を鳴らすと、そのまま緩く力をこめて、顔を寄せて囁いた。
「じゃあ、君はどうなの」
「え」
「娼婦みたいに男二人天秤にかけて」
彼の手のしたで、私の上下する喉の皮膚のうえで、真珠の連がかすかに軋んでいた。
その密やかな音を聞き分けたのは、使い古された、ありきたりの侮蔑に身を震わせるほど衝撃を受けた、私自身の理性に違いない。
「……言い過ぎたね」
彼はゆっくりと囁き、声をあげて泣くまいと堪えている私を見おろして、いとも艶やかに微笑んだ。
ミズキさんは、私が今、自分の差別心に傷ついた事実を嘲笑しているのだ。それに対して返す言葉は私のなかに見当たらない。
「ねえ姫香ちゃん、僕はもっと酷いことが言える」
「言えば、いいじゃない」
ああダメだ。こんなふうに相手を煽っちゃだめだと思いながら、言ってしまった。
「言わないよ」
ミズキさんはそう嘯いて、あの、こわいように完璧な古拙の笑みをみせた。
「姫香ちゃんが好きだから、これ以上は言わない。君にこれ以上嫌われたくはないからね」
大嫌いと声をあげれば彼が傷つくかと想像し、たぶん違うと思い直す。
「僕はもともと女性が好きじゃないんだよ。聖女だろうと娼婦だろうとふつうの女だろうと関係ない。ただ君だけが特別」
その声の抑揚には歌うような響きがあって、内容の悲惨さとおかしさにそぐわない。自分がヘンなことを口にしているとわかっているのだな、と思う。
「でも、君もほんとは女性が嫌いでしょう?」
そんなことはない、と言えなかった。このひとにはもう、あの王子様の絵をみせてしまっているのだから。
「自分じゃなくて他人なら、好きよ」
ようやく口に出すと、そうかもしれないね、とうなずかれた。
「でも君は男も女もほんとは好きじゃない」
「え」
「姫香ちゃんのあのセルフイメージは王子様じゃなくて、『天使』なんだよ」
「テンシ?」
「そう」
天使? え、いや、それはでも。
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