審判の日 悔悛 178

たしかにベルニーニの天使の姿からイメージは拝借してるけど、でも、それはちょっと……いえ、だいぶ……。

 天使??? 

 それはあまりに、自分の理想としてなぞらえるのに、王子様よりお姫様より恥ずかしい、とんでもなく羞恥心を煽るイキモノじゃないか。

 よりにもよって、天使とは!

 こんな、こんなこと、このひとにこの状態で言われてしまうなんて、信じられない。今までの人生で、こんなに、こんなに恥ずかしい目に遭わされたことってない。

 頬に血がのぼり、ヘンなふうに呼吸が乱れていた。せっかくまとめた髪が崩れるのもかまわずくりかえし首をふり、 感情が昂ぶって泣きそうな自分をどうにか押しとどめようとした。

 ひどい。ひどいけど、でもこれは、相手を責める類のことじゃない。それだけの隙をみせたのは私で、見抜かれる甘さも自分の咎だ。

 ミズキさんは猫のように目を細め、こちらを見おろしていた。私をいたぶって愉悦をおぼえているこの視線がなければ、声をあげてやめてと言ってしまいそうだ。そんなにこのひとを嬉しがらせることはないと、喉奥で悲鳴をこらえた。

「僕は、自分を天使だと思いたい姫香ちゃんのそういう無茶苦茶なところが好き」

 きゃああ。もう、それは言わないで、お願いだから、それだけは許して。

 相手を喜ばせるだけだとわかっていたけど、目を閉じて首をふってしまう。

「それから、自分だけを見て愛してってお願いするかわりに僕と浅倉を責めるようなことをいう、わがままで高飛車なところも好き」

「それはっ」

「それからまだあるよ。自分でなんにも選べなくて人任せで、さらには自分の欲望を認めようとしない臆病者の偽善者で、相手がそれに気づくとすぐに逃げようとする弱虫なところはもう、ほんとに憎らしくて大好き」

 憎らしくて大好きって、それ、どっちなのよ。私が呆れていると、彼は微笑んでいう。

「君が天使なら、天国を追われたのは定説どおり、欲望が兆したからでしょう」

 さも楽しげに口にされ、私はそれでも、相手の顔をみて否定した。

「あれは傲慢の罪よ。七つの大罪でいちばん重い」

 彼は片眉をあげ、この手のことは君も詳しいんだったね、と苦笑した。

「西洋美術史を勉強するのにキリスト教やシンボルについて知らないではすませられないもの」

「……暁に輝く星か」

 彼は私の言葉など聞いているようすはなく、あらぬほうを見てつぶやいた。この調子だとまたヘンなことを言い出しそうで用心して身構えた。

 暁の明星はキリスト教では堕天使ルシフェルのことで、遡ればイシュタール女神に起源し、つまりは金星が守護となるヴェヌスへと辿りついてしまう。中世の図像では裸の女は愛欲の象徴で、徹底して性愛を忌避したキリスト教会の敵なのだ。ボッチィチェルリが《ヴィナスの誕生》を描くまで、それはひたすら「悪徳」であり「淫ら」の徴でしかなかったのだから。

 彼の部屋に、ジョルダーノ・ブルーノやカンパネッラの本があることくらいは予測していたけど、『黄金の夜明け団』という横文字を見つけたときには、正直、引いた。魔術と美術はごく親しい関係にあるものだけど、あまり禍々しければ避けたくなる。まあ、悪魔儀式を実践するにはミズキさんは頭が勝ちすぎる。怜悧と狂信とはいっしょくたにならないものだ。

「おとなしいね。観念したの?」

 黙っていると、不満だったらしく眉をひそめた。ミズキさんは決定的な何かを欲しているし、私はそれを与えたくない。さっきみたいに迫られれば私はすぐに降参する。それをわかっているからこそ、触れてこない。

 このひとは、私が自分をさしだすまでこの拘束を解く気はないのだ。そうでなければ、浅倉くんが好きだから離してと言えばいい。たぶん、そう言えば、いいのだ。それで逃げられるはずだ。

「ねえ姫香ちゃん、昨日、浅倉はまず、僕に会いに来るべきだったんだよ」

 息を詰めると、頬をなでられた。

「そう思うよね?」

 頷くこともできず、かといって首をふることもできなくて、いま、自分がどんな顔をしているのか知りたいと思った。

「本当に君を守ろうとするなら、僕に正々堂々と申し入れすべきだ。君を手に入れてから僕のところに来る臆病を棚にあげて、口では自分が悪いようなことを言い、それでいて君のたった一人の騎士みたい逆上せあがって僕を悪者扱いするのが君に相応しい男のすることかな」

 それは下手を打ちすぎだと判断する一方で、ミズキさんはズルイ浅倉くんが好きなのではなかったかと思い直す。それともあまりにバカを仕出かされて腹が立ったのだろうか。

 とはいえ、そういう愚かなことを許容したのは私だ。私が、悪い。

「ミズキさん、私」

「君は僕との約束を破った罪悪感で、今、こんな酷い仕打ちをされても仕方ないって思ってるね」

「違うの?」

 彼はにこりと口の端をあげた。

「姫香ちゃん、君は自分のことを守ることもできない男達を甘やかしすぎるよ。そこにつけこんでいる僕が言うのもなんだけどね」

 何を言われているのかは、察した。

 察して、だからこそ私はミズキさんを拒絶できないのだとわかった。彼は私を自分のいいように扱う一方で、公正な立場を示すことを忘れない。ごまかそうとしない。

「……ミズキさんは、浅倉くんに正々堂々としてもらいたかったの?」

「いや」

 彼はかるく首をふった。それから私をまっすぐに見おろしてこたえた。

「君に、卑怯な振る舞いをするのが許せないだけ」

 この状態で、この態勢で、それを言うか。ひとを押し倒しておいて、そう言う? 典型的なDV男のくせに!

「自分がする分には許せても、他の男がするのは何があろうと許せないんだよ」

「それ……おかしいよ」

「僕だって、自分がまともな状態だとは思ってない」

 耳許で囁かれ、波打った肩にそのまま手をおかれた。そんなに力が篭められていないのだと気がついて少しは抵抗してみるかと思ったとたん、唇が頬に触れた。

「暴れないで。君には酷いことしたくない」

「そうやって、私に責任転嫁しないでよっ」

 これのどこが酷いことじゃないのだと声をあげると、のぞきこむようにしてまた笑われた。

「じゃあ僕が何もかも自由にしていいんだ」

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