審判の日 悔悛 176

相手のほうが私を好きだと言っているのだから、あちらが緊張して窮屈な思いをすればいいじゃないかと思ったりした。大事にされているのも気を遣われているのも一生懸命してくれているのもわかった。わかっているのに、そう思う。たぶんきっとちゃんと好きでいてもらっている。だからこそ、それを気持ちいいと思えない自分を罵り自嘲した。かといって別れたいとも口に出せなかった。どうせ次も大なり小なり似たようなものだろうと想像できた。慣れ親しんだ分、新しく一から始めるより楽だ。

 それでも、ふられるとホッとした。自尊心を傷つけられて辛くて悔しいものの、それは独りでいられる大きな安堵を連れてきたから。

 もちろん、その安堵も長続きしない。すぐに不安がやってきた。そのくりかえしだ。

 ふられるときは決まって、詰られた。うわべだけの優しさ、おれがいなくても平気そう、最後のところで自分を譲り渡さない――少女漫画なんかだと、そうやって振られる女の子のほうがたいてい弱くて可愛らしくできているものだけど、私はほんとに独りで平気だった。いや、独りのほうが落ち着いた。誰の顔色もうかがわず、自分の呼吸をひとに合わせることもないですむ。そう……私のほうがいつだって余裕があるから相手に合わせていられるのだと、自身がよく、知っていた。

 もっとも相手だって馬鹿ではないのだから、そうした傲慢にちゃんと気づく。でも他に方法がないのだ。自分が好きになった相手としか付き合わないというのでないかぎり……そんなの、いつあるのかわからなかった。そんな、宝くじのようなものに期待する無謀を許容できない。

 それに、彼らは私の何を見ていたのだろう。私が故意に見せようとしたところにしか反応しなかったじゃないか。

 たいていの男は家庭的で控えめでやさしげなタイプが好きだ。妻と母を混同する気持ちは偽れないらしい。そこさえ押さえれば美人じゃないことくらい、いくらでも覆せる。ことに年をとっていけばいくほど多少は賢くなり、高値の花を狙う身の程知らずの危険は冒さない傾向にある。

 私がオトコをなめてることは否定しない。しょせんこんなものだと見くびっていることも認める。

 でも、オトコだって私のことなんて、なんにも、何にも理解しようとしないじゃないか。そうであってほしいという願望ばかりで、その通りにふるまってきたのに、希望通りにふるまわなければ嫌な顔をしたくせに、最後だけは違うことを言う。

 でも、じゃあホントウに、ミズキさんはあれで楽しかったのだろうか。何もかも、私に合わせてくれていることは知っていた。だからそれが、私の不安であったわけで……。

 私が目を見開いていると、両腕が胴にまわった。肋骨が軋む予感に身をよじろうとすると、ふっと腕の力が抜けて、ミズキさんが私の頭の横で何かを堪えるように浅い息を継いでいた。 

「……ねえ姫香ちゃん、僕は君といること以上の幸福はなにもないんだよ。君の声を聞けばうれしくなるし、眠ってる顔をみて安心するし、贅沢をいわれれば張り切るし、こうして抱いてれば離したくない」

 頬と頬を触れ合わせて、彼は続けた。

「浅倉がいちばんでもいいから、僕を捨てないで」

「ミズキ、さん……」

「君が困るっていうなら絶対に秘密にする。別荘でもなんでも欲しいものはプレゼントするから、僕と二人だけで会って」

 プレゼントってそんなことしたらすぐばれるじゃないか。そう思った耳横で、

「浅倉が出張中に会えばいいよ。それだけで僕は我慢するから」

 と、昔話の王様が家臣の妻に横恋慕して逢引するときの常套手段のようなおかしな理屈をこねた。

「浅倉、一月に最低一回は海外に行くようになってるんだよね」

 話が妙に生々しくなって、このひと、ほんとにそんなことが可能だと思っているのだろうかと首をかしげると、苦笑された。

「無理だと思ってる? でもね、僕はきっとそうする」

「そうするって……」

「だって君が僕の隣にいないなんておかしい。そうじゃないならこの世界のほうが間違ってる。こんなに好きなのに、ひとのものになるなんて絶対におかしいよ」

 えーと。

 なんだかなあ。

 このひとも私も、けっきょくは初めて会ったときからちっとも変わってない。

 私は逃げることしか考えてないし、このひとは自分の思うとおりにすることしか考えてない。浅倉くんの懐柔策はちっとも役立っていない。だめじゃん。

「……もちろん、君の嫌がるようなことはしない。浅倉がいちばんなら、君は僕との関係は隠しておきたいだろうから絶対に秘密にする。約束するよ」

 ひとが約束とか秘密とか言い出すときが、もっともアヤシイんだよね。それはもう、あのプロポーズのときに証明されている。

「ミズキさん、秘密にするって、あの勘のいい浅倉くんにばれないわけないじゃない」

 彼はそこで顔をそむけるように伏せて喉奥で短く笑った。笑いの発作をこらえるような仕種で口を歪め、それからゆっくりと面をあげて私に目をむけた。

「その通りだね。姦通罪なんてのがあるわけじゃなし、僕は今朝、彼を突き落として殺そうとしたわけだし、君を手に入れるためならもう何もこわくない」

「そんな」

 抵抗の声をあげようとすると、唇を塞がれた。首をふって逃れると、頤をつかまれた。

「説得しようとしても無駄だから。ましてや懐柔もされない。欲しいものは欲しい。これは譲れない。僕との関係がばれて、君が浅倉から愛想尽かしされるようなら僕の勝ちだ」

 底が見えないくらい真っ暗な両目で見おろされていた。この、瞳孔の開きっぱなしの感じはやたらこわい。あやしく濡れた赤い唇が密な白肌との対比で病的に見えた。

 だめだ。

 これはもう、押しとどめられないと観念した。体力差を鑑みて抵抗しても無駄だ。こちらが、堪えるほうだという意見もあるのかもしれない。

 このひとは十分すぎるほど怜悧で狡猾だ。今後、起業家社長として社会生活を送っていく野心もある。だから、殴られることはない。酷く痛めつけられることも。少なくとも、目に見えるところに傷を負わせられる危険はない。ミズキさんは、自分の人生を捨てるつもりはないのだから、犯罪になるような苦痛を私に強いるはずはない。

 ダカラ、ここで徒に悲鳴をあげたり暴れたりしないほうがいい。

 だけど。

「……冷静だね」

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