審判の日 悔悛 175

 彼が期待してるのはどうやらふつうに、当たり前に、自分が愛されているという実感だ。浅倉くんよりも、自分が選ばれているという確かな事実だ。だとしたら、私は自分の身を守るためにも、泣いて許しを請うべきだろう。どうして電話してくれなかったのと恨んで、頭をさげるべきだろう。

 でも、そうしたら、今度は浅倉くんになんて言えばいいかわらない。

「そうね。そう言われたほうがミズキさんとしては納得するかもしれないけど、そういうんじゃなかったと思う」

「思うって……」

 一瞬、怒りかけた気配を押しとどめ、彼は椅子の背に左手をついて腰をかがめてこちらを見た。私はその視線を跳ね返すつもりで相手を見つめた。

「ミズキさんが、私といても幸せそうじゃなかったからよ」

 彼は大きく目を見開いた。

 それから、声をあげて笑った。

「すごいね、姫香ちゃん。さすがに僕もぜんぜん予想してない言い訳だ。すごい」

 言い訳したつもりはなかった。 

 でも、哀れまれることをこのひとは許容しない。私は右手を膝のうえにおろして両手を重ね、目の前のひとを見つめ返しながら、自分がひどく勘違いしていたのだと気がついた。

「そんな苦しい言い訳をするより、はっきりと、浅倉のほうが好きだって言えばいい」

 瞋恚に曇る両目を見据えてから、私はゆっくりと瞼を伏せた。思えばずっと、このひとの瞳は澄んでいた。何もかもを見通す理知と明晰は悲しみこそ似合え、怒りとは無縁だった。少なくとも私の前では。

「言わないつもり?」

 だからこそ、迫られて返すことばは決まっていた。

「私を虐めて苦しめたいってすなおに言えば? 回りくどいよ」

 相手は珍しくあからさまに息をつめたように感じたけれど、目をつむったままでいた。椅子の背がキ、と軽くきしみ、彼が手をはなして腰をあげたのがわかった。

「……そうだね。ひたすら踏みつけて痛めつけてやったら清々するだろうって、自分がそうできたらどんなにいいかと思う。そうじゃなくても、今ここで君を口説き落として浅倉を裏切らせたらどうなるだろうって、ずっと、君がここに来てから考えてる」

 ウソのない声だった。彼が本気でそう思っていることは理解できたし、それも当然だろうとも思えた。

 そうなのだ。

 ミズキさんは、私が思うほど弱くない。

 ちっともカワイソウじゃない。

 今になって気がつくなんて、それで、気がついたくせに自分の気持ちを否定できないなんて、ほんとにバカだ。

 このひとはそれなりに、ちゃんと、しぶといのだ。眠剤を飲み、夜中にクルマを飛ばし、ふだんソフトなくせにたまにやたら攻撃的になりながら、こうやって私をいたぶって愉しもうとする程度には、「男」なのだ。

 私の、かわいそうな美しいお姫様じゃない。

 まったく、どこがカワイソウだ。

 私のほうがずっと、カワイソウじゃないか。

 なんだか今ならそう言っても許されるような気がする。違うかしら。二股女にそういうことは許されない? でも、 なにしろ。

 ミズキさんに嵌められて、浅倉くんにいいように騙された。

 ああもう、なのに私は、私は……。

 たぶん、どっちかに決めてしまえばそれでそれで乗り切れるんだろう。きっと、みんなそうやって生きてるのだ。選ばれなかったひとの恨みを引き受けて、愛されなかったひとの痛みを、その寂しさをちゃんと理解して。

 でもじゃあ、選べなかった場合はどうしたらいいの。

 私は決められない。この今になっても、決められない。

 こんな鬱屈した状態のミズキさんをほうって浅倉くんと一緒になれないし、ミズキさんを選んで浅倉くんを捨て置けない。

 そうしたらもう、両方いらないが正解だ。

 もうあとはふたりで仲良くしてくださいっていうしかない。仕事とプライヴェートでべったりすればいいのだ。もともと会社なんてホモソーシャルな世界なんだし男同士で愛し合って生きてても、中世ヨーロッパじゃあるまいし、今の日本ではなんの問題もないじゃない。三十代男性の半分は未婚なそうだから誰も怪しまないし非難されないよ。いや、偏見があってクローゼットを強いられるとか色々と問題もあるかもしれないけどね。でも、このひとたち今までそれできたんだから、そういう点は心配しなくてもよさそうだし。それに日本の人口は減ってても、地球人類としては増えすぎてるみたいだから結婚して子供ができなくても問題ないでしょう。男ふたりで収入あるんだし、フォスターペアレンツでもすればいいよ。

 こういう言い方は無責任で不謹慎かな。十分に差別的かもしれないけど、でも、ある意味で現実そのままだ。そう思うなら、どうして始めっからさっさとそういうふうに言えなかったのかしら。いや、言ったか。それでもダメだったんだっけ。

 でも、いくら考えても、これしか方法はない。とにかく、ミズキさんをなだめて、浅倉くんが戻ってくるまで時間を稼ごう。

 それで許されるかわからないけど、でも、ここはそうやって逃げ切るしかない。

「まだ、逃げられると思ってるの?」

 呆れ声が耳に届いた。声がちかくて肩を揺らして目を開けると、それと同時に腕をとって立ち上がらされ、抱きしめられた。相手の熱にとりこまれそうで反射的に拒絶の声をあげると、頬に手がふれて上を向かされた。

「どうして僕が、姫香ちゃんといて不幸だなんて勘違いしたの」

「え」

「それは君が、僕といても幸せじゃなかったから?」

「そんな」

「そうじゃ、ないの? 幸せは大袈裟にしても、君、僕といてもちっとも楽しくなかったってこと? 僕は君に何もしてあげられなかった?」

 泣きそうに濡れた声で尋ねられていた。

 ミズキさんと一緒にいる間、私はずっと気持ちがよくて、その快楽はこのひとが何かを耐えて自分を殺しているせいかと思っていた。

 私自身が、男と付き合っている間ずっと疲れきっていた。とくに社会人になってからは酷かった。デートから戻り家でひとりになると身体中の力が抜けた。だから結婚できないのだということくらい、わかっていた。

 でも、いいひとはいないの、と母親に嘆息されるのは堪らなかった。それに、カレシがいたほうが職場や友人にも言い訳できた。誰とも一緒にならないで生きていくとは決められなかったし、あたりまえに、ふつうに、みんなと同じようになりたかった。独りでいたほうが気楽だよ、と何でもなく口にできる友人が羨ましくて、その覚悟が眩しかった。

 幸い、女らしい服を着て猫をかぶっていれば、あざといことをしないでもカレシはできた。相手がいないと言うひとは、贅沢なのだ。自分を気に入ってくれたひとを好きになればいい。仕事と同じで、とにかくそれをするしか方法はないのだから。ひとりで生きる覚悟のない自分には、そのくらいの心構えは当然だと思った。

 そう考えているはずなのに、私は恐ろしいほど傲慢だった。

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