審判の日 悔悛 174

 謝罪しようとすると、もう諦めているという風情で肩をすくめられた。

「まずはその話をしたほうが、いいと思う。今までちゃんと話してこなかったからね。

 君が気にしてる、正規の美術教育を受けていないっていうことは問題にならない。現在のところデッサン力のなさは弱点ではあるけれど、芸大に入るためにそこらの教師に習って変な手癖がついてよいところを失くすよりは、超一流の画家に手ほどきを受けるほうがいいからね。年齢のことは言ってもしょうがないし、どれだけ仕事ができるかにはまったく関係ない。

 それと、君は自意識が強いから厳しくしたほうが伸びるタイプで、あまり褒めたくないからひとつだけ。

 君には、たとえ白黒の画面だろうと色彩を伝え得るだけの表現力、こちらの視線を強引にもっていこうとする力がある。ちゃんとものが描けていないのにそんなことができるひとはそうそういない。それは絵の巧みさというより情熱のなせる業で、その一点だけでもう、君はかくべきひとだと思う」

「……それ、情熱しかないって言われてる気がするんですけど」

 情けない気分で口にすると、容赦なく、

「うん。そう言ってる」

 ミズキさんがとびきりの笑顔をみせて続けた。

「姫香ちゃん、だから僕は君のパトロンをおりることにする。HPとフリーペーパーの件は、いったん白紙に戻そう」

「え、私、クビってこと? 用無しってことなの?」

「セレクトショップの企画広報で働いてもらいたいから解雇じゃないよ」

 ミズキさんらしいビジネスライクな口調だった。

「どうしてっ」

「周期的に僕の店のイラストの仕事して、それでまた他所からも注文が入ったりしたら、君はそれでいっぱいいっぱいになるもの」

「だって、それが」

「それが目標だなんて、自分が食べられるだけでいいなんて、ほんとは思ってないんだから自分をごまかしちゃダメだよ。売り絵をかくのは画家として必要なことかもしれないけれど、君の場合は最初からそう考えすぎ」

「でも、だって」

 だってと繰り返すだけの私をミズキさんは辛抱強く見守っていた。視線の意味するところをはかろうとした瞬間、その言葉がやってきた。

「自分のほんとうにかきたいものをかかないと後悔するよ」

 真剣な響きに、胸を衝かれた。

 思わず息をつめて見つめ返すと、ミズキさんは本当に困ったような顔をしていた。それから前髪をゆっくりと指ですいて、私をのぞきこむ視線で告げた。

「姫香ちゃん、君がハイ・アートを目指すのか、いわゆるイラストレーションをやりたいのか、それさえも僕にはわからない。もちろん、その間に区別なんてないとも言えるし文主絵従のやり方に反対を唱えることも出来る。ただ、僕の好みで絵をかいてもらうことは、君が自分自身に目隠しをすることに似てるよね」

 ミズキさんに指図されるのは嫌いじゃない。あれこれ言ってもらいたい。そう反射的に思ったのが知れたらしく、彼は苦笑した。

「まさかまだ、自分が誰かの希望をのんで、その通りに動こうとして、それでやっていけるなんて思ってないよね?」

 ことさらゆっくりと口にされた言葉。

 それが、何をさすのかわからないはずはなかった。

 そうか。

 私は、いまの今まで、彼をほんとうに「頼り」にしていたのだ。恋愛感情で私を憎むことがあろうと考えながらも、私の「絵」を、彼が捨てると思わなかった。だから、ここに来てしまった。ううん、来ることができた。

 その幼すぎる理解の傍若無人にうなだれていると、頭のうえに声が落ちてきた。 

「僕はそこまで自分でわかっていて、それなのに、僕の運命の相手は君しかいないって思うんだよね」

「……ミズキさんならもっと素敵なひとがいると思うっていう反論は、無効なの?」

「それ、どんなひとか教えてよ」

 真顔で問い返された。

「だからこう……美しくて賢くて才能があって、あとはそうだな、すごく妖艶で」

「僕は正直、誰もが美女と思うタイプの女性は好きじゃない」

 なぜかは私も知っていた。それは彼の「おかあさん」に似ているからだ。

「あのタイプの精神構造は基本的に僕と同じだ」

 私のようないい年をして少女っぽい外観を装う未婚女は内側に「おやじ」を飼っていてモノグサで冒険できない卑屈なところがあり、髪を巻いた隙のない美女には「ヤンエグ(古いか、今ならなんて言うんだろう)」がいて冴えない同性にきつくあたりがちで、ショートカットの男っぽいキャリア女性には「ファンシー」が入って家にぬいぐるみを集めるような奇妙なズレがあったりする。我ながらあまりに酷い言い様だけど、フルタイムで働く女性の背景にそのひとの女性性との葛藤を垣間見る瞬間があると、いつも、膝から下の力が抜けてぼんやり立ち尽くしたくなる気後れがあった。

「私はじゃあ、従属的でやさしいとでも?」

 ミズキさんは、その反撃には眉をつりあげて笑った。

「そうじゃないから僕は君に夢中なんじゃないの? ちょっと目を離した隙に他の男と関係してしまうんだから」

 堂々と不貞を罵られて、言葉につまる。

「ああ、そうだ。その話をしていたんだよね」

 と、彼はそらとぼけた。その流し目に、背筋がすうっと寒くなる。

「まあ、さっきも言ったように僕がそう仕向けたところもあるから、君だけに責任があるわけじゃない」

「仕向けたって……」

「試したって言ってもいいけど」

 それなら理解できた。私は試験に不合格だったということか。

 胸の奥底から、深い息がもれた。なんともいえず、不愉快な気分だった。正直になるというのは、しんどい。そんなに自分はお綺麗な存在か、と問いかける。信じてくれたひとを裏切ったのだと思っていたあいだは申し訳なさにいたたまれなかったくせに、試されたと聞けばこんなにも腹が立つのだから。

 腹が立つというのは相手に優位をとられたことが口惜しいのだ。自分が相手を傷つけることが出来ると哀れんでいた間には、そんなことはちっとも思わないんだから。

 己の身勝手さに嫌気がさして震えそうになり、あわてて背筋をのばし、頤をそらすようにして口にした。

「そう。じゃあ、期待に添えなくて悪かったわね」

 声が、いつものように出なかった。喉が細くなってしまっていて、泣き声のように聞こえて失敗したと感じた。そうして引き攣る喉もとに手をあてて、いまの失敗を覆すような言葉を吐き出そうとしたところだった。

「浅倉に無理やり押し切られたって言わないの? 逃げ場なく追いつめられたって」

 私は、それを聞いて身じろぎした。

 ミズキさんはまだ、私を欲しがっている。

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