審判の日 悔悛 168

「君が憎くて許せなくて酷いことしそうでこわかったけど、僕、やっぱりそうはしないみたい」

 言い終えると同時に顔がちかづいてきた。よける間もなく、触れるだけですぐ離れて、彼は目を閉じたままくすっと笑い、

「よかった」

 そう、つぶやいた。

 よかった、のか。

 私には、わからない。

 ただ身動きができず、ハンカチを握りしめてじっとしていると、頬に唇が落ちて涙を吸っていった。

「姫香ちゃんてアイスキャンディみたい」

 なんだ、その形容は。

 さすがに顔をあげて相手を睨む。

「冷たくて甘くてどこかに芯がある」

「どこかって、それは真ん中じゃないの?」

「舐めてるあいだは忘れてるんだよ。ガリってきて驚くんだ。これは食べられないって」

 私は額に手をあて、彼が続けた。

「でも、アイスそのものより当たりがついてるあの棒が欲しいってこともあるよね」

 悪意のかけらも感じられない顔つきで同意を求められたので、それには不承不承うなずいた。すると彼は私の肩から手をはなし、そこに片膝をついてこちらを見あげた。

「もういちどさいしょっから、姫香ちゃんとのことをやり直したいって言ったら」

「それができないから、人生なんじゃないの?」

「そうだよね……」

 うなだれた相手の頬に、私は問う。

「なにを、後悔してるの?」

「なにもかも。すべて」

「いいこともあったじゃない?」

「うん。それでも、この先ずっと姫香ちゃんに触れないかと思うと」

「ミズキさん、浅倉くんに愛想を尽かしたの?」

 彼の言葉を遮るように問いかけると、苦々しげにこたえた。

「少なくともあのときは本気で死ねばいいって思ったよ」

「……ねえ、そういう言葉は」

「言わないほうがいいよね。ごめんね。君に汚い言葉を聞かせて。でも、許せないと思ったんだよ、そのときはね。ただ」

 私が首をかしげると、前髪を指ですくようにしてうつむいて言った。

「ただ……そうだな、僕自身も君との約束を守れないかもしれないって思ったことで、すこしは他人を許せそうな気もしたから、それはすごく感謝してる」

 他人、というのが誰のことか、ふたりともよく、わかっていた。だとしたら、浅倉くんは自分が意図したことをちゃんと、やり遂げたのだ。どうやってかはわからないけれど、このミズキさんが感謝しているというのなら、それは真実、そうなのだ。

 よかったと、思った。ほんとうにそれはよかったと思った。

 けれど私はそのことに触れずに、笑みをつくってべつのことを問う。

「ミズキさん、実はやっぱり浅倉くんのほうが好きなの? 私、ずっとそうだと思ってたんだ」

「ちがうよ」

 肯定されるかと思ったのに、首をふられた。

「いちばんは姫香ちゃん、君だよ」

 まっすぐに口にされて、心臓が鳴った。

「ウソ」

 不思議そうに見つめ返された。

「どうして嘘をつかないとならないの? 僕には姫香ちゃんがいちばん大事。今度のことでよくわかったよ。浅倉が落ちてあと僕がすこし冷静になって最初に考えたのは、君のことだった。浅倉の怪我についてはもちろん心配した。でも、それと同時に、このまま何かあったら君が僕をどう思うかってそればかり考えて悔やんだよ」

「ウソ……」

「本当だよ。自分でも呆れた。しかも情けないことに君が悲しむかどうかより、これでもう絶対、君に選ばれないって確定したことのほうが辛かった。浅倉がへらへら笑って診察室から出てきて、僕はたしかに安心もしたし彼に感謝もした。もっと言えば大した奴だと感心したしやっぱり嫌いじゃないとも感じたけれど、それでも君が彼を選んだと思うと許せなかったよ」

 なんと言っていいかわからなくて唇を噛むと、自嘲するようにして言い継いだ。

「でも、突き落とすその前の瞬間まで、正直にいうと浅倉に欲情してたんだけどね」

 混乱して目をしばたくと、ミズキさんが何かを思い出すような顔をして、それからふっと肩の力を抜いた。

「浅倉はほんとに嫌な男だよ。君にはもっと清廉潔白な王子様みたいなひとのほうがいいんじゃないかって思うんだけど。悔しいからいうんじゃなくて」

「それってミズキさんのこと?」

 思わずそう尋ねると、僕はダメ、と言った。

「ひとを突き落とすような罪人だ」

「そういうことをさせるほど相手を追いつめる浅倉くんもどうかと思うよ?」

 たとえ、それくらいしないとミズキさんが誰かを許せるようにならなかったのだとしても、それは上手くいったからの話であって、自分も死にそうな目にあって、相手にそれだけのことをさせてしまうというのは危険すぎる。たぶん、そう口にしたところで、浅倉くんはあの調子で、でも成功したじゃん、とかなんとか言って笑うだけだろう。

 ミズキさんは肩をすくめてこちらを見た。

「君、浅倉に失望してる?」

「ふたりに、ね。それと同時にその原因が自分なんだとしたら、そんな自分も最低って思ってる。だから正直にいうと、ミズキさんがさっき言ったようにほんとは全部リセットしたい気分」

「それは、無理だよ」

 あっさりと、こたえてくれた。

「でも、そう思うの。私、浅倉くんにどういう顔して会えばいいかわからない」

 彼はふっと横をむいて笑って口にした。

「いつものように、怒ればいいよ。怒られたがってるんだから」

 そうね、とうなずいてひとしきり笑い、顔をあげたとき、目の前のひとが笑わずにこちらを見ていたことに気がついた。いつもよりひといろ暗くなった瞳に、胸が痛くなった。

「これで最後にするから、キスしていい?」

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