審判の日 悔悛 169

首をふろうとする前に唇が重なった。さきほどされた不意打ちのキスとちがい、自分の心臓が鳴っているのがわかった。背中にまわった腕のつよさを感じると同時に、角度をかえてくる。あまり深くなる前に胸を押し返すと、すぐに離れた。ほっとしてうつむくと、頤をささえて持ち上げられて、またキスされた。やめて、という直前にはなれて、すぐ押しつける。耳の形をそっと指でなぞられて思わずそよがせた肩を抱かれ、いやだと頭をふったのを追いすがられてくちづけられる。そんなことをくりかえされると力が抜けた。

 ジンジャーエールの味と、いつもより濃いエゴイスト・プラチナム。この、癖のある、喉が渇く香りを、喘ぐような気持ちでのみこんでしまう。そして、そのさらに奥にあるはずの、彼自身の匂いを探していた。

「姫香、ちゃん?」

 耳の横で囁かれて身じろぎすると、頬を指の背と手の甲でゆっくりと撫でられた。

「きもち、いいの?」

 頬から頤の線を指先でなぞりながら口にされた。そういうことは聞いちゃダメだって前に言ったじゃないか。押しのけて立ち上がろうとしてもつま先に力が入らない。

 ミズキさんが腰をあげたのがわかった。

 斜めに仰ぐと、彼はまっすぐにこちらを見おろしていた。

「君は今までずっと、僕の言うことを信じてなかったんだよね。あんなに僕の言うことに嘘がないって口にして、いちばん大事なところだけ、信じてなかったんだ……」

 うなずくことも、首をふることもできなかった。彼は吐息をついて首をふった。

「僕は姫香ちゃんがいちばん好きなんだよ。浅倉より君が好きで、プロポーズしたのだって好きだからだ。それはなにも浅倉を引きとめるためでも何でもなくて、君と一緒にいたかったから」

 心臓が痛かった。ぎゅっと目を閉じると、彼の手が乱暴に頤をとらえた。

「君は、僕が浅倉のことをいちばんに好きだと思っていたから僕のところに来たんだね。僕と君は浅倉を諦め、浅倉は君を諦めて誰かをとればいいと、それで三人仲良く痛み分けだと思ったんだ」

 頷くわけにはいかなかったけれど、きっと、正しい。私はたしかにそう考えていたに違いない。

「君、ほんとに酷いことを思いつくね」

 断罪されて、呻きそうになった。彼は頤から手をはなし、またもやうなだれた。

 どうこたえたらいいのかわからなくて、ただ浅い息をついでいると、彼が髪をかきあげて口にした。

「それなのに、僕は、君が僕を懸命に好きになってくれようとしてるんだと思って舞い上がっていたよ。自尊心の欠片もないけれど、同情でもなんても、君が僕を選んでくれたんだって思ってた……」

 相手の顔を見れなくて、膝のうえに視線を落として身をかためていると、息苦しい、いたたまれない問いを聞かされた。

「君を責めるのは間違ってるかな? 誤解させるようなこと、僕、言った?」 

 どうして、傷つけたくないって思っていたひとを、自分がもっとも傷つけてしまうのだろう。愛してほしいというのは、何もかも信じて受け入れてほしいということだ。ただ、肉体を受け止めればいいということじゃない。

 私は、そんなことさえわからなかった。自分のことで精一杯で、ミズキさんの気持ちを少しも理解していなかったのだ。

「僕はきっと、遠慮しすぎてたね。姫香ちゃんのこと愛し足らなかった?」

 仰向くと、かつてない強引さで唇を奪われた。さすがにそれはおかしいと、今は話し合うときなのにどうしてそうなるんだと、そういう気持ちで腕をつっぱって相手の身体を押しやると、すぐ離れた。

「もうっ、なんですぐ、そうなっちゃうの?」

「したいから」

 目の前の人物がしらっと、言い切った。

「それで迫り倒せばいいっていうものじゃないでしょう!」

 私の怒り声にも怯むことなく、彼はしゃがんでもっともらしくうなずいた。

「そうだね。でも、浅倉が来る前にしときたいなって」

「だからっ、私の意思はどうなるの?」

「僕としたくない?」

 やわやわと膝に手を置かれて首をかしげられた。そのまま腿のうえを指がさかのぼろうとするので慌ててその手をつかむ。

「したくないわよっ」

「まあ、口ではそう言っておかないとならないよね」

 その言いっぷりに、金切り声をあげそうになった。彼は私の手をほどいて膝からバッグを取り去り、机に置いた。

「ミズキさん、だいたい今、仕事中で、ここオフィスでしょ?」

「今日はひまだし隣に仮眠室もある。電話は表の店で取るし、急場の事務仕事はぜんぶ終わらせてしまったよ」

 君たちが抱き合ってるあいだにね、とつけくわえられて総毛立つ。身を凝らせて肘をかかえて目をそらしていると、囁きが落ちた。

「したくないって言い張るのは、二股かけてる自分のふしだらさが気になるってこと?」

 撃たれたように、息が止まった。

 私の受けた衝撃に、ミズキさんが首をかたむけて微笑み、ゆっくりと口にした。

「淫らで背徳的で、とても魅力があると思うけど?」

 聞きたくないと耳を塞ごうとしたところで、彼が言い足した。

「僕は好きだな。というより、君なら、どんなでもいいっていう気がしてきた」

 彼は横をむいて、照れたようにつぶやいた。

「いちばんにするっていう約束を裏切られて、好きだっていうのも信じてもらえなくて、まして天使のお迎えが来たからってさっさと行きたがる薄情者だと思ったら、なんか僕、むちゃくちゃ燃える」

「はい?」

「ホテル行こう」

 ぐいと腕をとられて立ち上がらされた。その腕の乱暴さ、軽々と扱われたことへの反発に悲鳴のように声をあげる。

「ミズキさん、そうじゃ、ないでしょう」

 つかまれた腕をふりほどこうとした私に、彼はいったんその手をはなした。本能的な恐怖を悟られたことで、私の頭も冷えたのは事実だ。それなのに、自分がなにを言いたいのか、今の言葉のあとに何を続ければいいのかがわからなかった。ただ、とにかくこのまま相手のいいようにされるわけにはいかない。けれど、何をどう言えばいいかわからなくてうつむいている私を見おろし、彼はひとつ、小さなため息をついた。

「姫香ちゃん、君は僕を甘くみてるよね」

 今までさんざん自分が言ってきた言葉をぶつけられ、私は背筋を震わせた。

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