3月25日 153
こないだ大学で話したときはこんな言い方じゃなかった。何があったか知られたのかと怯えたけれど、金曜の講義が一緒で何度も声かけられたんだって、と問われたときにそうではないとわかった。懸命に思考を巡らして、あの一団の誰かが告げ口したのだと察した。
あの男が言うはずはない。なんだかそう感じた。
あいつに足、触られたのかよ。
これは、来須ちゃんが喋ったのだろうか。それとも、上に座っていた人間には見えたのだろうか。ウソをついてもしょうがないので、そこはうなずいた。
殴っておけばよかったと吐き捨てる横顔を仰ぎみた。ああ、これはきっと何もばれてない、と頭のどこかで察して安堵した。ところが、なんでこないだそれは言わなかったんだよ、という予想外の問いに目を瞠った。急激に喉が狭まり、このまま息絶えてしまいそうな気がした。すると。
触られて感じた? ヒメ、感じやすいよな。すぐよがる。
声も出なかった。自分がどんなふうだったのか思い出しそうになって焦った。晃の両目がすうっと細められた。
わかってるよ、嫌だったんだろ。
そう言いながら、彼の手は私の太腿に伸びていた。どっちの足? どっちって……。
フレアースカートの裾を持ち上げられて身を固めて拒むと、不機嫌な声が聞こえた。
他の男に隙みせるなんておまえらしくないだろ?
たしかにらしくはなかっただろう。唇を噛んで見あげると、相手はもう私の顔を見もせずに、消毒させてと跪いた。何をしたいのか理解して、それはよしてよと真面目に呆れ、どうしてもするなら先に風呂に入らせろと怒鳴りたくなった。梅雨時で湿度八十パーセントのなかを歩いたのだ。いくら私が汗をかかない女でも気持ち悪いし絶対に汚いよ。もう、暗くして電気消してよ――そう、言えなかった。
足を閉じたままでいると抱き上げられてベッドにおろされた。
それから先は、あまり思い出したくない。
そのときまで、私は彼に「させてあげて」いるのだと思っていた。でも、どうやらそれは大きな間違いのようだった。
晃はべつに私を乱暴に扱ったわけではない。殴ったり縛ったりしなかったし嫌だといえば、いったんはやめた。ただ、いつまでも私にノーと言わせないようにするだけの力があった。強引にのしかかってきて押さえつけるだなんていう無様さは微塵もなかった。けれど、幾つもの小さな抗いをひとつひとつ丹念に封じられ、私には、つながれた手をふりほどく腕力と体力と、なによりも精神力がないことを思い知らされた。彼の手が、指が、なんだか冷たく感じた。早く開放してほしいと願うだけで乗り切った気がする。
身体が離れてあと、潤んだ瞳と腫れぼったい瞼、さらにはひりひりする咽喉に、風邪の初期症状だと気がついた。冷房が効きすぎていたせいもあったかもしれない。晃はかいがいしく私の世話をやいた。
手持ちの風邪薬をのんだら少し眠ったようで、ベッドに座ってこちらを見おろす相手に、いやだって言ったのにどうしてあんなことするの、と横になったまま訊いた。声がすでに媚びて甘えを含んでいるように感じたけれど、不満だということを告げて、問い質すことはしておきたかった。
おまえ、いつもよりずっとよさそうにしてたけど?
彼はすでにジーンズを穿いてシャツを肩にひっかけていた。その開いた胸は広くて、とても清潔そうに見えた。さっき、自分の頬や首筋に彼の汗が落ちたとき不快に思ったことを忘れた。忘れたいと願った。
あんなに暗くしてと頼んだあいだは皓々と電気がついていたのに、寝ているうちに明かりは消されていた。まだ外は十分に日が高いのだろう。閉めたカーテンの隙間から光がこぼれ、彼の整った顔の輪郭を、肩や腕の線を丁寧になぞっていた。
口をむすんだままの私の髪を撫で、彼は微笑んだ。
ヒメ、ワイン好きだよな。夏休み、山梨のワイナリー行かないか?
彼の実家に連れてかれるな、と悟った。そうじゃなくても、その段取り、下準備ということだろう。
なんだか有耶無耶にされたけど、たしかにいつもより興奮していたはずだ。同時に、今まで感じたことのない嫌悪感と怖れをおぼえたのも確かだ。でもそれはなかったことにしようと決めた。怖気をふるうようなわかりやすさではなかったし、反撥をすぐに感じられるほど強くなかった。私が鼓動を早めていたのは純粋な性的興奮ではなく、被征服者らしい気弱さで与えられる快楽に必死でしがみついていたせいだ。彼はさして力をこめているようにも見えなくて、それなのに本気で抗おうと腕をあげることも叶わなかった。
了承の意をこめて首を傾けると、晃はタバコを吸いたそうな仕種をして視線をむけた。私は黙ってうなずいた。窓を少し開けてその場ですぐ火を点けたその忙しなさに、我慢していたのだということは見て取れた。しょうがないな、と思った。でも、しょうがないと思う自分は優しいひとのような気もしたし、なによりも、私は彼が好きなのだと安心した。これで、色々なことが楽になるよう期待する自分がいた。
まあ、その期待ってやつはその後二年としないで裏切られたんだけど。
なんにせよ、酒井晃は高校の後輩と結婚した。伝え聞くところによると、できちゃった婚だった。聞いた瞬間、それは計画犯じゃないかと閃いた。彼がしくじるとは思えなかった。しかも、相手の女の子は車の助手席にピアスを落としておくようなタイプだ。ならばお互い似合いだろう。喝采を送って胸を撫でおろし、ふられた相手の幸福を祝う贅沢を味わいながらビールを飲んだ。もちろん、本当のところ、その彼女の本意はわからない。けれど、彼は結婚するには悪くない男だろう。
別れてしばらくして、来須ちゃんが聞いてきた。先輩、四年生のとき酒井先輩じゃない人のこと好きじゃなかったですか。
あれを好きというのか。ぼんやりと考えて頬杖をついた。彼女の質問が誰をさすのかは心当たりがあった。好きというか、ただたんにヤリタカッタだけという気がする。正直にそうこたえられればよかったのだけど、私は少し疚しくて、悪いこと、してみたかったんだよね、とつぶやいた。
キスしたら予想よりずっと気持ちよくて、話したら意外と面白くて、一緒にいたら思っていた以上に居心地がよくて……そうか、なるほど。好き。だったのか……。
だから、こわくて逃げたんだ。
どうしていつも私はとろくさいんだろう。何年もたってそんなことに気がつくなんて、ほんと、遅い。トロイ。でもあんな、わけがわからなくなるようなのは要らない。あんなことしてたらおかしくなる。自分を制御できないのはいやだ。生きていられない。まともじゃないしみっともない。
もう、絶対にやめよう。
そう……固く誓ったんだけど、なあ。
想い出から抜け出したのは、浅倉くんがこちらを凝視していたからだ。いつの間にか涙がとまった男の顔を見つめ返すと、戸惑うようなそぶりで睫を震わせ、かるく頭をふってから頤をあげ、なにか覚悟を決めたとでも言うような顔つきできいてきた。
「卒業式の日、男に告白されてなかった?」
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