3月25日 154

 思い当たるのは、それだけだった。べつに告白はされてないと言おうとしたところを遮られた。

「花、もらってさ。その男のこと好きじゃなかった?」

 さすがに、なんとこたえたらいいかわからなかった。

 ただ呆然と目の前にいるひとを見つめると、浅倉くんは、私のかつてない動揺と困惑に気づいて遠慮がちに苦笑した。気遣われているのをはっきりと感じた。実のところこの質問には気持ちの準備がまるでなく、私はきっと、本当に困りきった顔をしていたに違いない。

 セックスについて問われるだろうとは理解していた。あれだけ緊張してしまったのだから話すことになると覚悟もしたし、ある程度の心積もりはあった。けれど、このことは、まるで予測していなかった。

 胸苦しさに肩を上下させると、初めて聞くような優しい声で彼がいった。

「いいよ、言って。あんた、そいつの前ですごく可愛い顔してたよ」

 そんなことはないと言うはずが、うつむいた。

 見られていたなんて知らなかった。位置関係を思い浮かべれば、二階の部室から見ていたのだろうとわかった。

 なんていうことだろう。

 からだの奥底にしまいこんで忘れていた記憶、みずから思い出すことを禁じ、忌むべきものとして戒めてきたそれを、こんな形で掘り起こされるとは思ってもみなかった。

 これは、参った。それは知られたくなかった。

 ううん、ウソ。

 嫌じゃない。私はきっと嬉しがっている。それを咎められなかったことで。責めて詰られないでいることで。そしてあの電話でうそつき呼ばわりされたのがどうしてか、その謎もとけていた。それらすべてをひっくるめ、自分でさえ気づこうとしなかった想いを悟られていた事実を悦んでいる。

 その証拠に、涙がとめどなく頬を濡らし頤をつたって床に落ちた。押し殺す必要のないそれは無遠慮なほどの勢いで、ぱたぱたと音をたてて流れていく。私は、息苦しさをおぼえずに泣くことができるとは知らなかった。泣くのを堪えなければ、それとも無理に吐き出そうとしなければ、こんなふうに水分を外に出せると、そのときまで知ることがなかった。

 浅倉くんは私の泣き顔を眩しそうに目を細めて眺めてから、ほんとうに初めて見る、包みこむようにやわらかな笑みを浮かべた。

 なにも、言わなくても大丈夫なのだ。説明しなくても。

 弁明し、許しを乞わなくてもいいのだと、わかった。

 途方もなく恥ずかしい気持ちになり顔を伏せると。

「オレさ、ほんとはあの日、ダメもとでいいから、も一回、好きだって言うかなあって思ってたんだよね」

 彼も、うなだれていた。

「んで、駅前じゃなくて近くの花屋に寄って卒業するセンパイにあげるっつったら、なんかわかんないけどお姉さんにすっげえおっきな花束作られちゃって、マジこれどうするよって、その、さりげなく渡すっつうノリじゃないのに仕上がっててあとに引けない感じで、来須と龍村さんにゲラゲラ笑われて、部室じゃ見つかるから施設管理室に隠してもらってさ」

 そこでちらりと私の顔を見た。

「私、貰わなかったよね?」

「うん。オレ、渡せなかったから」

 どうして、と聞いてもいいだろうか。さんざん恨み言を聞かされたのだから、それくらい問いつめてもいいだろうか。こんな、呆れるほど無防備な泣き顔を見せてしまったのだから、そうしても許されるだろうか。

「……ダメもとっていう気分じゃなくなったっつうか、びびったし、それにあんた、酒井さんじゃない男から泣き笑いみたいな顔で花受け取ってて、オレ無茶苦茶腹たって……自分がその、なんでそれまでセンパイが目の前からいなくなるっていうことがどんなことなのかわかんなかったんだろうって、来須に散々脅されてた意味がようやくその時にわかったっていうか……見てないと、そばにいないと、何にもオレにはわかんないんだって。オレはずっと、あんたは自分の好きなものだけ見て、それで誰からも変えられることがなくて、誰からも奪われたりしないって、そう思ってたんだよね。まあそれならいいじゃんって、我慢できないことはないっていうか。そうじゃない可能性もあるってオレちっとも思い至らなくて、来須に、ほんとに馬鹿じゃないのって呆れられた」

 なにも、言えなかった。

 いや、聞くべきことがあった。

「そのお花、結局どうしたの?」

「え」

 突然そんなことを尋ねられて思わずといったふうに上げたその面へと、泣かされた意趣返しのように投げつけてみた。

「私、浅倉くんからお花くらい貰えるかなあって思ってたんだよね」

「うそ、マジで? オレ、期待されてたの?」

 ところが、言われたほうは跳ねるようにさらに頤をあげ、両目を見開いて食いついてきた。

「期待っていうほどのことでもないけど、挨拶もナシかよ、とは思った」

「え、や、挨拶はしたっすよ」

「そうだっけ? なんかおぼえてないんだよねえ」

 そらとぼけて口にすると、浅倉くんがとたんに「後輩」の顔になる。

「や、そんな、ちゃんと話しましたって。センパイのほうこそ、学園祭に来るって言って来なかったくせに!」

「行ければ行くって言っただけだよ」

「うわ、もう、うそついて。やだなあ~。オレ、記憶力だけはいいんすから」

 不満に口を尖らす顔を見て吹き出した。浅倉くんがそう言うなら、きっと彼のほうが正しいに違いない。でも今さらそんなこと言われても詮無いことで、それはこのひともよくわかっている。いや、たぶん、このひとのほうが、よく理解しているはずだ。

 それから、浅倉くんはさっきの質問に真顔でこたえた。

「花はね、龍村さんの妹に渡りましたよ。あの日、妹さんのお誕生日だって言ってたから」

「それはまた……」

 ドラマチックな、という気持ちで瞬きをした。

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