3月25日 152

あの後すぐ、図書館でも見かけなくなった。カウンター横に視線を巡らすと、マダムがジンジャークッキーの入った包みを差し出してくれた。御礼をのべて頂戴し顔をあげると、たくさん食べてくれる人がいなくなっちゃったから、と苦笑した。やっぱり、とつぶやきそうになって、私はあわてて口をつぐんだ。

 掌のうえの、レース模様のプリントされた透明の袋を眺めながら、彼のことをなにか尋ねたいような気になっていた。でも、実際には何をききたいのかさえわからなかった。自分のせいでバイトを辞めたなどと思うのは自惚れだろうとさすがに理解していた。それに、独りで勝手にそう思いたがっている己を認めるのは惨めだった。

 私はマダムの端正な面立ちを見つめ返して開きかけた唇をとじた。彼女も、小首をかしげただけで何も口にしなかった。間近にみると頬のあたりに小さなしみが散っているのに気づいたけれど、眼の端にある笑い皺が美しいと感じた。私はもういちどお礼をいって、きちんと心をこめて丁寧にお辞儀をした。

 そのひとには、それから時々お菓子をいただくようになった。私はすこし、気が楽になった。彼女には、許されたように思えたのだ。何をかはわからないけれど。

 その後、彼が地方の新聞社に受かったことも漏れ聞いた。後期試験では最後尾の列に座っていた。就職できても卒業できなければ意味がないし、うちの大学は卒業するのが難しい。落とすつもりはないのだと安心した。

 卒業式の日に、学食前のメインストリートで屯すひとの群れに彼の姿を見つけた。同じようなスーツ姿のなかでも体格がいいから目立っていた。あの後もカフェや中央棟で見かけることもあったけれど、お互いにそ知らぬ顔をして過ごした。気づいていないはずはないと感じることもあったのに、目を合わせないままでいた。そういうとき、自分だけがいつまでも気にしていることを悔やみ、初めて会ったときに言われたあまりにも非礼な言葉やその他イロイロ不愉快な態度を思い出すように努力して、よけい厭な気持ちになった。その事実を思い返して傷ついたのではなくて、そんな非道なことをされたくせに忘れられない自分に呆れた。心底バカで真正マゾだと吐息をついた。

 だから、ドラマなら会話のひとつも交わすだろうと思いながら横をすりぬけた。視線さえ感じなかった。

 まあ、そんなものだ。ふっと息をついたところで肩を叩かれた。

「これ、持ち帰らない?」

 図書館のカウンター横でお菓子の包みを出してきたのと同じ調子で深紅の薔薇と霞草の花束を差し出されていた。私はすでに二つ、花を抱えていた。

「これから飲みに行くんだよ。邪魔臭いから始末に困ってたんだ。酒井に持たせな。あいつ、ゼミ長のくせに来ないって言ってたから」

 晃は今日、クルマで来ていて、せっかくだから遠出しようと約束していた。

「いらない?」

 どうしようか迷ったのは一瞬で、頤をあげたとたん、乱暴な音がして袂のうえに落ちてきた。エメラルドグリーンの振袖の腕に、薔薇のヴェルヴェットレッドはよく映えた。黒々と見えるほど濃い紅の花弁をそうっと撫でた。期待に違わない贅沢な厚みを指先に感じてから花束全部を抱え直してお礼を言うと、小さく首をふった。

 それからまともに目が合ってしまい、なんだか息苦しい気持ちがした。

「酒井にプロポーズされた?」

 私は目を見開いた。

「あいつ、言ってないんだ」

 やべえ、先に言っちゃったよ、と彼は肩を揺らした。伊藤、と彼の背中で声がした。予約の人数変更できる? と大声で聞かれていた。なんだよ、今からは無理だって、と彼は振り返った。それからこちらに向き直ることなく、おれがばらしちゃったの秘密にして、と言ってから横顔だけ見せて、それ、よく似合ってるよ、と口にした。ほんとはお転婆なんだよな、と足許の編み上げブーツを見たらしい。私は中振袖に袴をつけて、頑丈な太いヒールのついた黒革ブーツを履いていた。

 そう、本当は、どんなときでも駆け出すことのできない自分は嫌いだった。

 彼は深く頷いた私にちょっと胡散臭いようなあの笑顔でこたえ、じゃあ元気でな、と空いた片手を見せびらかすみたいに振りながら歩いていった。そのせいか、なにおまえ身軽になっちゃって、と笑われていた。あれ、酒井のオンナじゃん、という声を背中に聞いた。

 そういえば、伊藤なんというのか知らなかったな。

 ちらと考えてから薔薇の香りを吸い込んだ。これから部活と文化会本部に挨拶に行く予定だった。違うサークル、違うゼミ、違う学科、しいていえば学部と学年だけは同じだけど、このキャンパスを出てしまえば繋がりは何もない。もう二度と会うことはないし、それを聞くこともないだろうと思うとなんだか笑えた。そんなこと知らなくたって正々堂々と生きてけるのだ。

 酒井くんと結婚すると、私も思っていた。たまに遠くに出かけると、一緒の家に帰りたいよな、と別れ際につぶやかれた。山梨の実家にも遊びに行った。そのつもりでいて、と言われたこともある。どうしてそうならなかったのかわからない。付き合い始めて彼の部屋に誘われたとき、私がそれを躊躇うと、遊びじゃないって言っただろうと怒ったような声をだした。それでも私が何も言わないでいると、きゅうに弱りきったようすで、そういう子だから好きになったんだよと囁いて私の髪を撫でた。

 そうだろうな、と考えていた。うつむいて。髪を弄られるままにして。

 卒業して彼がクルマを持ち地元に帰るようになったことがきっかけだったのかもしれない。または、私が思った以上に仕事に意欲をみせたことが原因だったのか――ほんとはそういうことじゃないとも気がついていた。

 来須ちゃんから話がいった後のデートのことだ。渋谷のレコード店で新譜をチェックして、お互いとりあえず内定をとったという理由でお昼なら手が出ないこともないフレンチのお店にいった。それから映画を見る予定だったのに、店を出てすぐ、抱きたいと囁かれた。映画はまだ日にちがあったのでOKした。それなら早く家に帰れると思ったのだ。

 晃とホテルに入って、エレベーターのなかでキス以上のことをしてこようとしたのであわてて身体をひいた。軽くチュウするくらいはいいけど、ブラウスのボタンを外して胸を触られたりするのは困る。すると彼は、ヒメはかたいよなあ、と耳のなかに舌を入れながらくぐもった声をもらした。グラスワインしか頼まなかったのに酔っているみたいで、背筋を震わせて押しのけると彼は肩をすくめた。大学内で晃と別々にいるように見えたのは、手をつないだり腕をくんだりするのが気恥ずかしかったせいもあるし、見せつけてやればいいよなどと押しきられるのが嫌だったからだ。

 部屋に入って立ち止まっていると後ろから抱きつかれてキスされた。シャワーを使わせてという言葉に首をふられてはじめて、彼の調子がいつもと違うことに気がついた。

 伊藤のこと、なんでもっと早く俺に言わないんだよ。

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