3月25日 151

痴態、嬌態、なんでもいい。彼の腕に支えられて背を反らして震えていた。自分を攫っていこうとする感覚の凄まじさに怯えていたけれど、その恐怖感さえ欲していた。それに、しがみつくと抱き返されるのが心地よかった。

 呼吸を整えながら目を閉じていると、肩のうえで明くる日の予定を聞かれた。午前中に面接があるし午後は講義とこたえた。おれもサボれないや……家、門限あるんだよな、泊まれないのか、いきなり外泊は無理だよな、明日はラブホでもいい? 

 きゅうに現実的な話になった。身体の熱がひきはじめると、自分が何をしたのか理解して恐ろしくなってきた。晃に何て言えばいいのかわからなかった。それだけじゃなくて、彼と付き合っているのにこんなことをして、当然ながら今自分を抱いている男はこの先の予定を埋めようとして明日どこに行きたいか、何を食べたいかと聞いてきて、この先いったいどうなるのかと考えるだけで眩暈がしそうだった。

 質問にこたえるどころでなく、自力で立てないままの私を気遣い、まるで小さな子供にするみたいな態度で身支度を整えられた。羞恥心をおぼえるより先に、何もかも任せて今にもくずおれそうな自分にぞっとした。

 けっきょく、彼をトイレの外に出し個室に入って下着から全部ととのえた。指先が震えてホックが一度ではまらなかった。鏡も見ずに、髪を手櫛でととのえバレッタでまとめなおして手首に香水をつけた。気を入れ替えたかった。

 扉を押し開けて外に出ると、肩に腕を回された。酒井という名前が相手の口から出た瞬間、泣きじゃくるように頭をふっていた。なんと思ったのか、彼は私の背中をかるく叩くようにして撫でさすった。言葉を止めることができてひとまず安心した。明日、金曜は、晃は大学に来ない。講義を入れていない。私はこの土日に祖母の家に出かける予定だった。ふたりが会うのは水曜日のゼミだろうと見当をつけた。クルマに乗せられるまでそんなことばかり、考えていた。

 篠突く雨のなか、彼はちゃんと時間前に塾教室まで送ってくれた。まるでタクシーの運転手さんに説明するように住宅街の道順を示す不器用な言葉をつむぐだけで、でも、自分が気詰まりでないと感じていた。彼もずっと無言でいた。途中のコンビニでサンドイッチと紅茶も買い渡された。フルーツジュースじゃないんだと助手席でもらすと大笑いした。それから、明日はこんなんじゃなくてなんか美味いもの食べような、と微笑んだ。

 彼は終わる時間までちかくでクルマを停めて待っていた。

 歩いて十分の距離なので、以前も少し遅くなっただけで母親が心配して迎えに来た。続きをしたいのかと思ってそのことを話すと、お母さん、優しいんだ、と口にされ、彼に囁かれた言葉を思い出してどぎまぎした。自分がひどく無神経でいやらしい人間に思われたかとうつむくと、頬をもちあげられて唇を吸われた。

 ほっとした。ごめんなさいと言わないですんだことに。軽蔑されなかったことに。

 小さな折り畳み傘などちっとも役に立たないほど雨は激しさをましていた。傘を開いているあいだに彼が車から降りて門をあけてくれた。傘もささない相手に家の玄関をあけるまで門のところに立って見送られたことなどなかった。軒下に入って振り返ると、彼は早く家に入れというように頤をしゃくった。走り寄ってもう一度キスしたいと思った。しなかったけど。こんなふうに離れがたいと感じたことはなかった。

 どんな天気だろうといつも私を出迎える犬が、小屋に入ったまま鼻面だけのぞかしていた。吠えなかったと気づいたのはドアを閉めてからだ。初めて家の前にとまるクルマに注意をはらわないのは珍しい。タクシーだとすぐに一声、ウオンと狼のような声でお帰りなさいの挨拶なのか、自分がいると主張した。彼が郵便受けに張ってあるマークに気づかなければ、うちに犬がいると知らないまま帰ったかもしれない。

 クルマの遠ざかる音を思いながら、サンダルのストラップを外そうとして屈んだ。肩にしょったままの鞄が音をたてて灰白色のタイルに落ちて、私はそのまま膝を抱えて丸くなった。犬のように蹲りたいと思った瞬間に、母親の声が居間からとどいた。あわてて背をおこし踵をあげて靴を脱いだ。タオルを持った母は、あら、そんなに濡れてないわね、とつぶやいた。私はただうなずいてそれを受け取って足を拭いた。雨音のせいか、それとも弟が見ていたハリウッド映画のせいか、クルマが来たとは気取られなかったようだ。

 その夜はじめて、されたことを思い出しながら自分を慰めた。その日まで、私はあまり性欲が強くないのだと思っていた。ちょくせつ触れるのはこわくてできなかったけれど、しっかりと反芻した。あんなふうに昂ぶることができないもどかしさに焦れて、切なくて、それを追い求めようとする自分が恐ろしくて泣いた。

 晃のことを思うと取り返しのつかないことをしたような気がしてパニックになり、一体これからどうするつもりだと必死になって頭で考えながら、身体を撫でていた。

 狂ってると思った。     

 泣きながら、嗚咽をこらえる息苦しさにさえ感じている自分をもてあまし、誰に助けを求めたらいいのかわからなくて、すがりつく腕をひたすら求めているだけだと嘯いた。ただ気持ちよくしてくれる存在が欲しいだけ……。

 これが所謂セフレだと開き直り、晃に隠してつきあうことができるだろうかと考える瞬間が、たしかに、あった。好きだともなんとも言われていないことを言い訳にしたかった。やめたくないと、思っていた。  

 その一方、半年待たせてセックスをこわがった私を宥め、何があったとも聞かないよう我慢してくれている晃を裏切るなんてできないと、そんな真似はしたくないと考えながら、何よりもほんとは、昨日までの自分を守りたかった。明日彼についていけばもう引き返せないところに行ってしまうように想像し、肘を抱えて震えていた。

 その後、来須ちゃんから話が伝わって、声をかけられなくなった。

 翌週はもう、前期試験だった。

 講堂の階段ですれ違い様、つまんない女、ずっとそのままいい子ちゃんでいろよ、と囁かれた。みぞおちに氷を投げ入れられたように身体が冷えて、振り返る気力さえなくして立ち尽くした。自分が相手を傷つけたのだという自惚れにしがみつくことで、ひとりでいても泣かないですんだ。

 夏休み明け、後期が始まってすぐ、後ろに陣取る一団にその男の姿がないのに気がついた。出席を取る講義ではなかったけれど、彼がマスコミ志望だと知っていたし単位が危ないと言っていたことを思い出し、さりげなさを装って友達に聞くと肩を落とされた。

 心配なら自分で言ってあげなよ、伊藤ぜったい喜ぶと思うな。

 そう言われても、彼の家の電話も何も知らなかった。もちろん、ゼミは知っている。でもそこには晃がいる。うつむくと、彼女は微笑んだ。深町ってたまにすごく女の子っぽい顔するよね。

 黙っていると、軽やかな笑い声のあと言われた。今からでも伊藤と付き合えば? 酒井くんより深町のこと大事にしそうだよ。なんでいっつも一人でいるのって言ってたよ?

 私はなにも、こたえなかった。もう遅い。それだけは誰に言われずともわかっていた。つまらない女に用はないだろう。顔も見たくないから避けられたのだ。


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