3月25日 145
彼は私があんまり痛がるので途中でやめてトイレで済ました。それから泣きながら謝った。姫香があんまりかわいそうで、と言った。自分でやったんじゃない、という言葉が喉許まで出かかって、嗚咽に飲みこまれた。頭を撫でられて、囁きが聞こえた。
一生大事にする。どうしても自分のものだって思いたかったから。酷いやり方してごめん。もう二度とこんなことしない。姫香のこと愛してる。
どうせなら、終始いやらしい蔑み言葉を言われたほうがよかったような気がする。綺麗とか可愛いという褒め言葉が混じることが不快だった。サービスで言っているだけでなく、彼がどうやら一部は本気でそう思っていて、それを、自分だけに見せて、と独占欲を丸出しにされることに苛ついた。
酷いことをしたと謝罪して頭をさげながら、彼は明らかに行為の前より落ち着いて、余裕があって、己の立場の優位を確信していた。はっきりと、安心していた。これで自分のものだと感じているのがわかった。
言葉どおり、所有の証がきわどい場所に幾つかあった。
はっきりと傷を負ったとわかる出血をシーツに見るより無惨に感じたのは、それが打撲のあと、殴打の痕を思わせたからだ。しかもすぐに消えないのは明らかだ。拭い去れないシミか汚点のように見えたその瞬間、ついぞ感じたことのない強烈なナルシズムが襲いきた。心密かに自慢にしてニキビひとつ出ないよう気を遣ってきた肌を穢されたように感じて喉が苦しくなった。
水着は無理だろうと諦めた。楽しみにしていたのに断りを入れないといけないと考える胃の底で、わけのわからないものが波打っていた。怒りだと気づいたのはずいぶん後になってからのことだ。こんなことなら精液を飲まされるほうがましな気もした。そこまで、思っていた。
もちろん、突然のナルシズムの噴出は彼がさんざんおだてて褒め称えてくれたせいだということも、今はわかる。私は自分の耳に心地いい言葉だけはしっかり聞き逃さなかったわけだ。
一方で、相手への憤懣もちゃっかりと抱え込んだ。
彼が私に優しくするのも大事にするのも可愛がるのも褒めるのも何もかも、「自分のもの」だからだ。たとえ私の自由にすることだって、彼がそれを認めて許しているということだ。それを受け止めきれなくて、もちろんそうはっきり口に出せなかった。
次の週、遠出した。海の見える綺麗なホテルでものすごく時間をかけて熱心に愛撫されたのに私の身体は頑なだった。浅い息をついで目を閉じたまま、彼が試みることを受け入れようと努力していたはずだ。初体験で挿入できないという話は耳にすることがよくあるけれど、二度目から先にできなくなるというのはあまり聞いたことがない。
きっと、強引に身体を進められればできたのだろう。でも彼はそうしなかったし、私も強い力で押さえられそうになっただけで全身を強張らせた。彼が駄目だったときもあるし、うまくいかなかった。お互い萎縮していた。
局部にローションを使うと言われたとき、抑えていた不満と不安が弾けた。市販の化粧品でさえ体調が悪いとかぶれることがあるのだ。コンドームでさえゴムのせいで痒くなったらどうしようと心配で、実際、気にしすぎたのかそんな風に感じてやめたこともあった。
声を殺して泣く私を抱きしめながら、彼は私の「脆弱さ」に戸惑っていた。痛みに耐えられずありとあらゆる刺激に弱く、そのくせ「強情」だった。はっきりと哂うけれど、以前はそれらが彼の目に「かれん」で、「芯が強い」という美質としてうつったであろう箇所だ。長所は短所の裏返しという言葉を、そのときほど判りやすく理解したことはない。
そして、私は私で自分の想像を超えた痛みの感覚に怯えていた。骨折や打撲の衝撃、熱をもって鈍く襲いくるそれとも違う。胃痛や腹痛で冷えた汗を流して身を折ってやりすごすようなこともできない。高熱で節々が押し潰されて軋み捻転してただ喘ぐだけという状態とも違う。刃物で手を切ったときの凍みるような冷たい感覚に続く憤りに似た血の逸りとも相容れない。皮膚表面から内側へ這い進もうとする火傷の執拗な過敏さにも似ていなかった。
もしかするとそれも当たり前で、たんじゅんに、逃れようと思えば逃れられる苦痛だという一点で、私はそれを我が物にすることができなかったのかもしれない。
そんなことをくりかえしているうちに、電車に乗っていても歩いていても食事中でも黙りこくっていることが多くなった。その年頃の男の子にしてはとてもマメだったはずが電話もかかってこなくなった。私も、約束の確認のためにしかかけなくなった。俺を責めないの、と彼が言った。私は口をつぐんでいた。不思議なくらい立場が入れ替わっていて、私がこわがってもいいはずなのに、相手がうかがうようにこちらを見た。
彼に経験がなければ、またはもっと遊んでいたりすれば、もう少しその後のやり取りも違うことになっていたかもしれない。元カノの態度を思い出すにつけ、彼女は上手にやれたのだろうな、と後ろめたさを感じた。
それに、何を言ってもわざとらしい気がした。自分の本心をあらわす言葉を探そうとしても意味がないと、わざとらしくてもありきたりのことを何か言えばよかったと気がついたのは何年もたってからで、男というのはどこかで聞いた記号みたいなわかりやすいせりふを口にしてさえいれば安心して側にいてくれるのだと、その頃は知らなかった。
あなたが想像しているように私は痛がっているだけじゃなくて怒っているし呆れているし嫌がっているのかもしれないけれど、あなたが私を好きだというなら、それが私を大事にするということだというのなら、愛するということなら、私は理解しようとしているし受け入れようとしていると、そう伝える言葉が、私の内側になかった。あなたを嫌いになったわけじゃないと、どうしてずっと一緒にいるって約束したのにそれを破るのと、言えなかった。
否、言わなかったのか。
私は泣かなかった。涙を見せるのが悔しいからではなくて、もうここで泣いても彼を引き止めることができないとわかったからだ。泣いて言葉を覆せると思ったら縋りついて泣いただろう。泣き顔は可愛く見えないし、無駄なことはしない。
それに、独りでベッドで丸まって泣くほうが気が楽だ。しかも思い切り泣けて気持ちいい。自分の感情をもてあますのは、真夜中だけで十分だ。
一生愛してるって言ったのに。ほんと、男の言うことなんて信じちゃダメだ。
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