3月25日 146
そういえば、好きだともなんとも言わない男もいたな。
その男とは、ダイニングバーでの最悪の出会いの翌日、大学の中央棟の二階で遭遇した。学生課や教務課、就職課のある一階と違い、二階はエアポケットのような穴場だ。ローテーブルにさしむかいでソファが置いてあり、たぶん教職員のためのちょっとした打ち合わせや休憩所として設けられていたに違いない。酒井くんはゼミ長だったので先生に呼び出されることも多く、その場所でよく待ち合わせした。
はじめ、私はそこにいるのは大学職員だと思った。紙パックの自動販売機の前に立つ後姿は、就職活動中の男子学生の、どうにも様にならないスーツの着こなしとは違った。
だから足音が近づいてきても気にせずにウォルター・ペーターの『文藝復興』を読み進めた。隣に腰をおろされてはじめて、飛び上がるほど驚いた。
「酒井と待ち合わせ?」
頷きもせず、相手の顔を見た。そのときの内心の言葉は、げ、の一文字だけという私の表情にも彼は白い歯をみせた。さぞや就職活動で有利だろうと思わせる爽やかな笑みには警戒心がわいた。こないだと態度が違いすぎる。
横に座られて、身長百八十センチの晃より大きく感じられたのは身体に厚みがあるせいだ。ありきたりの紺のスーツが野暮ったく見えなかった。
彼は片手にフルーツミックスジュースを持っていて、何か飲む、と聞いてきた。それには首をふった。ふってから、立ってもらったほうがよかったと気がついた。私は自分のカバンを壁側の右においていた。退路をたたれたことを察して、そっと岩波文庫を閉じた。
「旧仮名?」
彼は私の膝のうえから本を奪い、奥付の日付と父の蔵書である印に目をとめて、古臭い本をよんでるとでも言いたいのだろうか、なにが面白いのか口許を緩めた。
「おれ、酒井ってすかしてて嫌いなんだよね」
そうだろうと思ったよ、と返すわけにはいかない。晃が来るまで居座るつもりだろうかと考えたところで、ゼミ、何とってるの、と聞かれた。無視するか迷ったけれど、美術史と返答した。へえ、おれ、ターナーが好きなんだよね。
彼は見た絵について、その大きさと与える印象の違いを話した。絵を前にせずにそれを説明するのは存外難しいものだけれど、達者だった。落ち着いた深みのある低音で語られて、私はすなおに耳をかたむけた。
自分の態度がきゅうに軟化したことに心中で苦笑しながら、嵐の絵ならレオナルドの素描も面白いし、北斎にも迫力のある不思議な構図のいいのがあると伝えた。それは画集で見たことがあるとこたえられた。ジョルジョーネの《嵐》の空も印象的だしロイスダールの空も見応えがあるんじゃないかな。
そう言うと、彼はロイスダールについては思い出せないらしく聞き返してきた。十七世紀のオランダの風景画家、すごく低い水平線のうえに風に吹かれた雲が弱い陽のひかりに撫でられて迫り出すような景色をかいてて、あれ見ると大河浪漫の出だしの情景描写っぽくて、後のロマン派の先駆者だと思うよ。ああ、ライスダールのことか。うん。十七世紀だとレンブラントやフェルメールと同じ時代だよな? そう。レンブラントの自画像はいいよな。
相手の見た絵のはなしを聞き、いつまでも会話がつづきそうな気がした瞬間、探りを入れられた。
「酒井じゃ物足らないんじゃない?」
たしかに助教授といるほうが刺激はあった。しかもむこうはちゃんと研究室のドアを開けておいてくれた。奪われるものは何もなく、与えられるだけの居心地のよさは格別だ。
口をつぐんでいるのをどう解釈したのか、相手はにじり寄ってきて耳の横で囁いた。
「これからドライブ行かない? 深町さんの行きたいとこどこでも連れてくよ」
晃を出し抜きたいのだとわかった。
約束があるから、と顔を背けると、
「どうせ酒井の家でやるだけじゃないの?」
見透かされて、息をつめた。食事のあと、彼のロフト付1ルームマンションに行くようになることは間違いない。
「昨日はおれたちと飲んでてやれなかったもんな。こんなお嬢さんぽい服着て、ほんとはすごく淫乱なんだ」
怒りを覚えるまえに呆れ果てていた。なんで男ってこういうことを言いたがるんだろう。というか、よくそんなこと口に出せると感心すらした。
昨日の今日だ。今さらかわいこぶってオクターブ高い声で詰ってみせてももう遅い。ほんとはそれが、いちばん逃げやすい。第一印象でさぼったツケがまわってきた。
その日は、ローラ・アシュレイのくすんだローズ色の花柄ワンピースを着てヘアバンドがわりに細いワインレッドのリボンを頭に結んでいた。服は秘書をしている従姉のお下がりだ。私は不精な女で、朝寝坊すると自動的にワンピースになる。髪もリボンで押さえてしまえば格好がつく。それに、男と会う日はジーンズをはかない。だって、スカートのほうが喜ぶから。といってボディコン服も着ない。あれはスタイルのいい美女が着てこそセクシーなものだから。
そういうことを考える私が「ほんとはすごく淫乱」かどうか、誰がわかるっていうんだ。
「酒井にはやらせてるんだろ?」
頬に果汁の甘ったるい匂いが触れた。それがどうしたと言ってやりたい気にもなったけれど黙っていた。斜めに見返すと、眉根を寄せて問いつめる顔は好色というよりむしろ、怯えているみたいに見えた。酔っ払った勢いに任せて下卑たことを尋ねるようにはいかないらしい。
「酒井じゃ物足らないだろ。どんなふうにやられたいのか言えよ。やってやるから」
バカかこいつ。やらせろというならまだしも、やってやるとは何様だ。
私は相手の目をしかと見つめた。
「本、返してくれる?」
意外そうな顔をした。ついで、それこそ物足りないような表情で唇を舐めた。
女がいつでも辱めに反応すると思うな、いい気になるなよ、と脅しをかけたつもりでいた。ふだん男に卑猥なことを言わせないだけの障壁を張っているのだ。それを崩されたくらいで慌てふためくほど初心じゃない。カレシでもない男を喜ばしてやるサービス精神は私には、ない。
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