3月25日 144
けれど現実は、浅倉くんにさえ言えないことばかりなのだ。大丈夫といわれ、その言葉にのせられたふりをして、たぶん、私は怯えている。どうして大丈夫だなんて言えるのと、責めればよかったのに言えないでいる。それが、私が浅倉くんを好きなせいだとしたら、なんてみっともないことなんだろう。ほんとうに、こんなにも卑怯で弱くて情けない。
かといって、それを今、ここで口に出来るわけもない。
言えるなら、そう、ここで言えるようなら、私はもっと違う人生を生きていた。その自覚があって、なおも今ここで繰り返すのが愚かさでなく何なのか。私には、それをどう名づけていいかもわからない。
そして、取り返しのつかないことを、責めてみても始まらない。すんでしまったことを、今さらどうにもできないことを、言ったってしょうがないじゃないか。本当に力ずくで否も応もなく無理やりにされたわけじゃないんだから。
なんだか間が悪いように思い、後ろ手に縛られるのは辛かろうと、もっともなことを口にした。
「それ、もう外そっか」
首をふられた。
「なんで」
「なんでも」
後ろを向くようにしてうつむかれて、その肩が震えていて目をむいた。
「なんで、泣いてるの」
不躾かと思いながら、きいてしまった。彼はゆるゆると首をふりながら、でも、やっぱり泣いていた。涙がくすぐったいらしく、振り払うように幾度も頭を揺すった。
私は彼の目の前に膝をつき、その顔を両手ではさむと、見ないで、と弱い声がこたえた。
「……オレが、泣いてちゃダメだろ」
「どうして」
私は彼の頬にキスをして、ばさばさな、梳かしてあげたいほどの睫を濡らす大粒の涙を吸い取った。
「浅倉くん、べつに私、奉仕して欲しいと思ってるわけじゃなくて。そんなにその……いったりしなくてもかまわないっていうか、ほんとに抱きしめてもらうだけでけっこう満足なの。それは私がオンナとして未熟なせいかもしれないけど、そういう開発みたいな考えも土地じゃないぞって反発したくなるし、でも、裸になるってそれだけで疲れるし……それに、男のひとって私が満足しないとがっかりするみたいだけど、私も自分が欠陥品みたいで悲しくなるし、かと思うとそのひとの手柄みたいに嬉しがられても、なんか、こう……うれしくないのよ。征服欲って呼ぶほどあからさまないやらしさがなくても、そのひと自身の優秀さを確かめたがってる気がして、色々してもらってるのに申し訳ないけど、私のことを喜ばせたいっていう気持ちにはウソはないと思うけど、なんか……やな感じになっちゃうの」
もっと俺を欲しがってもらいたかった、と晃は言っていたのだと思う。会えなければ寂しいと言われたかったことを、私は知っている。けれども私はさびしくなかった。肉体的にも精神的にも平気だった。むしろ、ほっとした。私は、会えないあいだの空隙を埋めるように二人だけの時間を持ちたがった相手を醒めた目で見つめ、抱かれると疲れると感じていたことを隠し切れないままに身を任せた。彼が仕事で辛かったときに、私はそれが面白くてしょうがなかった。何度もそれとなく持ち出された結婚のはなしを、私はその度ごとにまだ早いの一点張りで無碍に断った。そして、自分が会社でうまくいかなくなってはじめて、彼のことばを思い出した。
私は彼の話をきいて励ましたし、残業を切り上げ呼び出しに応じ、寝ていたいと思う休みの日もデートのために時間をつくった。傍目には献身的な恋人のように見えただろうけれど、つまりはそう「振る舞っていた」だけだ。俺のことなんて何とも思ってないんだよ、と別れを切り出されて当然だとしみじみ思えた。
一度そうやって失敗しているのに、私はその後も同じようにしてつまずいた。
学習機能というやつが搭載されていないのだろう。もしくは根っから冷たい人間だということか。
そもそも私は楽しいセックスというのを想像できないできた。
初体験からして、思わしくなかった。
大学のクラスメートたちと海に行く約束をして、仲のいい女の子と一緒に銀座で水着を買ったあと、地元の駅で彼の後輩に声をかけられた。あちらは模試の帰りで、立ち話もなんだからとお茶をした。彼に、それってナンパと同じだよと言われ、にぶすぎると難癖をつけられてカチンときた。鈍感呼ばわりされるのは心外だったし、べつに待ち合わせして出かけたわけでもないのに浮気みたいに口にされるのも腹が立った。英語の勉強法を聞かれたのだとこたえると、そんなのただの言い訳だとため息をつかれた。
たしかに、その後の一連の動きを思えば彼のほうが正しかった。でもその時は純粋に、成績が伸び悩んでいる後輩の相談にのったのだと思っていた。たとえ、じゃあ今度、使ってた参考書教えてもらっていいですかと次の予定があるようなことを言われても、書き込みがあってもいいならあげるよと親切心で返した。弟がいるせいか年下の男の子のほうが楽に話せたし、気に留めるような用件だと考えもしなかった。
だからこそ付き合っている彼に、俺のいないとこで他の男に水着姿見せちゃうんだ、と非難された瞬間、さすがに頬がこわばった。それくらいと言い返そうとして、浪人生の彼をイライラさせるほどキャンパスライフというものに浮かれていた自分に気がついた。失敗したと感じたけれど、もう言葉は取り戻せない。
私の緊張に、彼はちゃんと気がついた。
私は自分だけ遊びまくっていて申し訳ないと思っていて、彼はいつも色んな所に連れて行ってあげられなくて一緒にいられなくてごめんねと謝っていた。ああもう、これはそうなるしかないな、と他人事のように思い、彼があと何分後か何十分後には言い出すことばを想像した。
予想よりそれはずっと遅くに聞くことになり、その間、揉めた。生まれて初めて男のひとに声をあげられた。私は自棄になっていた。もういいからすればいいんでしょう、と心中で唇を噛んだ。かといって、自分からホテルへ行こうとは口に出せなかった。言わなければ逃げ切れるかとも、もしかすると思っていたのかもしれない。
濡れてる。いつもあんなに清楚な顔して、縛られてこんなに感じちゃうんだ。姫香の声、すごくやらしい。
どこのポルノ小説だと、耳許で囁かれることばを聞き流した。想像力の欠片もないと不満に思いながら、きっと、そこまでは耐えられた。ダメだと思ったのは、今まで体験したことのないような異様な痛みに支配されて後のことだ。酷く、優しくされた。彼は手首を縛っていたタオルをほどいて私を抱きしめてきた。心地いい言葉で慰められて、思いやりのある手つきで介抱された。やっと一つになれた。ねえ、やっと繋がれた。わかる? 辛い? 我慢できない? ごめんね。
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