3月25日 143
ちっとも覚えてない。なのにこのひとはそんなこと、ずうううっと忘れなかったってことなの? やだ、それ、申し訳ないし、すごく恥ずかしいじゃないか。
「オレ、この人ほんとに自由でいたいんだなって感動したっていうか……」
「龍村くん、なんてこたえたの?」
すでに私の興味はうつっていて、浅倉くんはそういうこちらの態度にはっきりと苦笑して教えてくれた。
「したい人はすればいいし、したくない人はしなくていいっていう制度が一番」
なるほど。彼らしい。
「それは模範解答だけど、逃げたな」
「そりゃあ逃げるよ。そんな大問題」
くつくつ喉を鳴らしている。
「浅倉くんはどう思うの?」
「それ、人類のことじゃなくて?」
「どっちでも」
同じようにさらりとこたえると、片方だけ口の端をあげた。
「オレはあんたの仰せのままに」
「寛容だね」
頤をそらして見おろすと、
「ていうか、オレがどうこう言ってもあんた絶対言うこときかないし。もうオレ、さっきもいったけど、ほんとにあんたの奴隷になりたいっつうか……」
ふざけたせりふに私が眉をひそめると、彼が小さく頭をふって真顔になった。奇妙な緊張をふりはらいたくて髪を耳にかけなおしながら頭を揺らすと、彼が私の視線が自分にむくのを待ってから、きいてきた。
「オレとして、こわかった? それとも痛かったり気持ち悪かったりした?」
私は腕をくんで考えた。こういうとき、自分の性の悪さを思い知る。
「その、真意はなに。なにを心配してるの」
私の問いに、彼がふいと目をそらした。
「浅倉くん?」
名前を呼ばれて、そのまま苦笑した。
「ねえ、悟志って言わない?」
「アサクラっていう音が好きなんだけど」
「じゃあ姫香って呼んでもいい?」
と、さっきさんざん呼んだくせに許しを乞う。今さらだという気分で鷹揚にうなずくと、後ろ手に縛られたまま器用に肩をあげて笑った。
浅倉くんは、なんのかんのいって実は直球投げないよなあと可笑しくなった私は、口にすべきか迷っていたことを尋ねた。
「……よかったって言って欲しいの?」
その瞬間、眉間にしわをつくって見あげてきた。なんでそんな怖い顔するの。
甘ったるいピロートークを期待したわけじゃないけど、怒られるいわれはないと、癇がたつ。
「だいたい浅倉くん、自信あるんじゃないの?」
「あるよ」
面と向かって肯定されると思っていなくて、息をつめた。そこへ、畳み込まれる。
「そこはあんたと同じだよ。相手の反応を読んで先回りすればいい。女の人はたいてい演技するけど、場数踏めばだいたいのとこはわかるし、外さない自信もある」
実を言うとかなり、ムッときた。どのあたりに腹が立ったのか考えようとした矢先に、
「でもオレ、あんたにだけは余裕ないんだよ。緊張しまくりで、あんたに下手とか思われてたら死にそうだし」
「浅倉くん、ほんとにそうは思ってないでしょ? 降参するふりで私の反応みようとするのはズルイよ」
斜めに見やると、
「ごめんなさい」
そう、頭をさげていた。
こころからの謝罪とも思えず、さりとて口先だけで謝ったという顔もしていなかった。やりにくいのは、つまり、私もちゃんと言えてないと悟られ、それを僅かに、しかしながら執拗に責められているせいだ。
困ったな。
私はずっと、どうして相手に演技がばれないのか、はたまたこちらが満足したと勘違いできるのかが不思議だった。だから、浅倉くんの言うことは正しい。私が長らく不満だったのは、性的充足の有無じゃなくて、いちばん距離が近くなるはずの行為でいちばん理解され得ないというそのことだった。こちらの機嫌をとり、ため息ひとつ聞き逃さなかったはずの男が、裸になると豹変することこそが不満なのだ。そして、それをどうやって指摘していいかわからない自分の無能ぶりに腹が立つ。それだけのこと。
そして、なによりも、たかがセックスのことでこんなに傷ついている自分がいるのが腹立たしい。たぶん、それは、無理解と無知からやってくるものなのだ。
誰も、セックスのことは語らない。語られていないと私は思う。そりゃあ人生だってなんだって自分で、独学で学ばないとならないものだ。けど、セックスってやつは『聖杯』のように質が悪い。
私だって、今ならわかる。
自分の数々の失敗は、セックスの力に頼ろうとして努力を怠ったのだということくらい。相手の言い分や怒りをちゃんと聞き、自分の思っていることをきちんと伝えようとしなかったのだ。
言葉以上のセックスはないと言ったミズキさんも正しい。私はいつでも黙り込み、こんなものだと諦めて相手を見くびった。だからふられて当然なのだ。
いえない言葉を山とかかえ、ひとりで泣くことで発散したふりをして、また同じ間違いをくりかえした。
言葉は難しい。
自分の思っていることを、相手を傷つけずに貶めずに、自尊心を守りながら正確に伝えることは困難だ。
だから私は獏を愛した。
彼女は私を理解してくれた。言葉以前の部分で、察してくれた。そして言葉でも通じ合えた。と、思う。
だから私はサンドロ・ボッティチェルリを愛している。
彼が、『神曲』の挿絵をかき、ネオ・プラトニズムの思想や麗しい詩を具現化し、言葉で伝えうる以上のことをこちらに訴えてくるから。毎年新しく異説が出るあの複雑怪奇な絵をかきあげてひとびとに何万語も語らせながら、見る、というただそのことだけで言葉では到底語ることのできない至福をもたらしてくれるから。
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