3月25日 138
「あのね、私には、自分の失敗や馬鹿さ加減を浅倉くんに肩代わりする趣味はないの。というより、そうしてしまう自分がみっともなくて、そうしたくないの。それだけじゃなくて、二十年ちかく前のことを覚えてられるほど、私は記憶力がよくない。初めての男のことは忘れないっていう神話はロマンティックにすぎると思うよ」
「じゃあなんで、わざわざ」
「浅倉くんの真似をして、試そうとしただけ。でも、それって性に合わないみたい。けっきょくそれって、こんなバカな、どうしようもない自分でも好きでいてくれる? っていう確認でしょ?」
唖然としたのは一瞬で、彼は眉根を寄せてこちらを見た。
「正直にいえば、浅倉くんの話を聞かされるまで細かいことは忘れてた。忘れたかったから忘れたし、ある意味でそれが復讐だと思ってる」
忘れること以外の復讐の仕方も私はちゃんと知っている。やろうとすれば残虐なことでも陰湿なことでも何でも、きっと、できる。百でも二百でも相手を貶める方法は考えられる。自分の手を汚さないで痛めつけることもできるはずだ。
でも、それはしたくない。
私は、自分を醜いものにしたくない。そういうことをするのは、美しくない。自分がかわいいから、自分で我慢できるあいだは、しない。
「私が相手を追いつめるほど愚かで、つまりは自分が悪かったんだと思う。けど、それを認めないで全部相手のせいにして酷いことを仕返すこともできる。私にだってそれくらいの知恵はあるだろうしね。でも、意識して相手を痛めつけるのは、二度、自分をいたぶることに似てるよ。まず相手の痛みを想像しないとならないし、それをしてしまう自分の残虐性を認めないとならない。それで相手からやり返されたらもう、逃げ場はないよね。殲滅戦で望めるほどのことじゃないし」
相手の存在自体がはじめからこの世になかったという究極的な虐殺行為ができるなら、きっと私はそれをしたくなるだろう。震えて泣いた愚かで惨めな私を覚えている相手がいる、そのことが許せないという、ただそれだけのために、そんなことまで考えた。
または、誰からも自分が断罪されないのだとしたら、私は酷いことをするかもしれない。
そう想像して、少なくとも、そういう選択肢を与えられていなくてよかったと安堵する。不自由で、弱くて、許されてなくて、よかったと思う。
「それに、そんなことで変えられてなるものかって思う気持ちのほうが強かったの。彼は自分が酷いことをしたって理解してたし、何もかも含めてきちんと謝ってくれたのに、頑なだったのは私のほうなの。今となってはそんなに依怙地になって自分の何を守りたかったのか、壊されるのが嫌だったのか、ちっぽけな存在のくせに何を偉そうに思ってたのかって、情けない。日々原子が入れ替わってて脳細胞だって呆れるほど壊れまくってるくせに、なに思ってたんだろうね」
浅倉くんがたぶん、きっともう少しマトモなことを言いだそうとした瞬間、
「だからって身近にいる、想像力のカケラもないような奴をのさばらせておく気はない。牽制もするし防御もする。過剰防衛にならないか心配になるくらい、実は攻撃的なの。弱い人間ほど相手を先に叩きたくなる典型だから」
「そうじゃない」
彼は何がおかしいのか唇を歪めて笑った。
「少なくともオレの知る限り、あんたはそんな馬鹿な真似はしてない。そうするほどの価値もないって知ってるし、たぶん、あんたが許せないでいるのは自分の失敗で、その男のことじゃない。ましてそいつのした暴力行為に傷ついてもいない」
その通りかもしれない。私が忘れられなくて辛かったのは、その前とその後に彼がみせた狼狽のほうだ。むき出しの、整理できていない、ナマの感情をぶつけられることがあんなに不愉快で不気味なものだと知らなかった。性行為など、それに比べれば何ほどのものではなかった。次にするまでは、怯えて大変だったけれど。
「あんたはいつでも冷静だったよ。ふざけてわざと罵ることはあったけど、ヒステリックになることは一度もなかった。女の人って怒ると早口でまくしたてるみたいに声が高くなるのに、あんたは周りを見渡して、低音で、ゆっくり喋ろうとするんだよね。あれにオレは痺れたっつうか、凄い人だなあって感動した。来須のほうが鼻っ柱強いくせにいざとなると甲高い声あげちゃう脆さがあるのに、あんたはほんとにクールでさ」
私は頭を揺すって肩をあげた。
このひとは、いつもなにか、途方もない勘違いをしているように思う。
「それはたんに訓練の差だよ。背が低いからなめられないように努力してきただけ。話す前に一呼吸おくと、けっこう冷静になれるものだから。それに私、けっこうあちこちドジ踏んでたよ? 浅倉くんがいちばん知ってるじゃない」
「抜けてるのは知ってるよ。でもそれって安心してるせいで、ここぞって時には後ろに下がらなかった。偽善だって陰口叩かれてもそれがどうしたって言えちゃう余裕があって、自分勝手な相手を叱り付けるときにもそれは本気で責めてるんじゃなくて実はスタイルで、かといって相手の善を信じてたふうでもなくて、淡々と人と物の動きを追って、それがあるべき形になるのを見届けてた……オレは正直、あんたが少し、こわかったよ」
私は、目をしばたいて相手を見た。
「きっと、自分の周りの人間でさえ、この世界の部品のひとつってくらいにしか見えてないんだろうなって気がした」
そんなことはない、と言い返せなかった。
たぶん、感情的に声をあげないでいられたのは、それが自分の悲劇ではなく、それゆえに熱意がなかったせい。茶道部は部員数も多くて優遇され、畳の必要なせいで居場所が確保されていた。正義感はあるつもりだけど、義憤にかられていたわけではない。自分のなかにいつでも疑念があった。そのせいで一呼吸おける。つまりは何事も上っ面だから、冷静でいられる。余裕がある。
来須ちゃんの言うとおり、私はいつでも恵まれてきたがゆえに「できた」のだ。
黙り込んだ私に、浅倉くんは苦笑した。
「若い頃にはそういう人、大勢いるじゃん? オレもそう思ってたと自分で思うし、龍村さんなんかも、愚民ドモめ、くらいのこと口にしてたけど、ああいう人のほうが罪がないよね。なんの根拠もない自信があるっつうか、いや、ちょっとは何かがあるから厄介なんだけど、龍村さんだったらほんとに賢くてさ。でもオレ、あんたには歯が立たないっつうか、いくらでもどうでもできそうなはずなのに、なんでかいっつもびびってた。違う世界の人かって、間違ってここに置いてかれちゃった感じがしたっつうか」
それ以上聞いていられなくて、割り入った。
「私はただマキアヴェリストになりたいって思ってただけだし、男の子相手だとどうしても張り合ってしまうの。来須ちゃんに聞いたら絶対、頼りなくて心配でって言うよ」
張り合うという言葉には、彼も納得がいったようだけど。
「でも、その来須だって、あんたがガラスケースに入ってるような気がしたんだよ。あんなに笑顔で優しそうなのに、いざとなるとなんだか手が届かない気がして」
少しだけ、責めるような声音だった。
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