3月25日 137
いま思い出してみても、響子のいうことは正しかった。私はすでに彼が浪人すると言った時点でいやな予感に気落ちした。
しかも、狙いすましたように、推薦で美大に受かった元カレに告白のときと同じかるい調子で、ヨリ戻しちゃったりしない、と美術準備室で誘われた。テレピン油のにおいに顔をしかめるように、カノジョいるのに、というと、付き合ってくれるならあっちは卒業したら縁切るよ、と堂々とぬかした。
そのノリについてけないと答えるかわりに、ふったのそっちじゃない、と別れた時にも洩らさなかった不満をぶちまけると、けどさせてくれなかったから、と返ってきた。目を瞠って凝視すると、好きじゃないってことだと思った、とゆるく結んだタイを指で揺らしながら口にした。全人格を否定したつもりはなかったのにとうろたえながら、卒業まではしたくない、と断ったことを彼が覚えているのだということにも気がついた。
しなかったことに深い意味はない。話を聞いている限り、すこしの勇気とセックスへの興味があれば経験できてしまうものなのだな、というのが当時の正直な感想だ。上手に口説かれていれば、意外と簡単に処女なんてものは消費蕩尽されそうだった。みんなしてるから、などと言うので私に肘鉄食らわされるのだ。
そうでなくとも母親にちゃんとしたお付き合いをしなさいと言われていて、自分でも、万が一避妊に失敗したら高校生で出産というのは嫌だと単純に思っただけだ。でも、ちゃんとってなんだろうと、いつも疑問だった。
名ばかりの公立進学校で、在学中に堕胎話を耳にしたことがないでもない。けれど、詮索するのは好きじゃなかった。事実だとしたら興味本位で話すには命に関わる重すぎる問題だし、ただの噂なのだとしたら誹謗中傷だと思ったから。
その後、なんて言って部屋をあとにしたか覚えていない。小柄で女の子みたいな顔をした彼に、深町チャン、いまBFいないならおれなんかどう、と言われたほうが気楽だったのはたしかだ。
もっと自分のことを特別に好きになってほしいと願っていたのは幻想で、そんなふうにされるといつでも逃げ出したくなった。そして、逃げ出したかったくせに、そうされることを強く望んでた。
違う。自分が、そうしたかったから。そのひとにだけ忠誠を誓いたかったから。
「なんでそんなに自分で責任負おうとするんだよ」
「そのほうが、楽じゃない?」
この世界が、または相手が悪いと言ってもどうせ解決しない。どうも、被虐的にそう思って自分を責める癖があるのだろうという気はする。自覚はある。でも、それ以外の方法を明示しても、やはり、変わらない、のだ。
「楽なはず、ないだろ……」
頭をぶるぶる振っている。そんな否定しないでもいいのに、と思う。
「そんなに我慢しないでいいんだよ。やだったらイヤって言えばいいし、酒井さんの時だってやめればよかったんだよ。そうじゃなきゃオレにだって、オレが頼りにならなきゃ他の人にでも、言えばよかったのに……」
浅倉くんの言い分はわかる。私の論理だと、そのひとが悪ければ、それを非難する相手に何をされてもいいっていうことになってしまう。それは間違ってる。そういうのはいわゆる「支配と従属の関係」だ。そんなことくらい、理解してる。理解していて、なのに、拒絶できない。それはだって、それ以外の方法を知らないから。
つまり、それ以外の人間関係の築き方を学んでいない、もっといえば、見たことがないってことのほうが問題なのだ。
誰か、そういうのを、ちゃんと実現しているひとがこの世にいるんだろうか?
あちこちで戦争があって迫害があってテロがあって、弾圧があってハラスメントがあって虐待があっていじめがあって……
それで、それで……ほんとに、あるの?
あるの?
私は、浅倉くんにそう尋ねられない。
困らせると思う。
それに、そういうのはみっともない。アルかどうかじゃなくて、そうしていくことが正しいときちんと自覚して実現していく強さを持たないとならない。それが、オトナだ。私には、それができない。そのためのなんらかの努力をしていない……。いや、そうしようとして……やめた、のだ。
それに、そう。
私はまだ、なにも言えていない。
私は、彼がここで本当に言いたい名前は酒井くんではなくて、ミズキさんだってこともわかる。それでも。
「酒井くんのこと、好きじゃないように見えた?」
「ただ男がいたほうが便利だから、上辺だけとりつくろってるんじゃん。それじゃ何の解決にもなんないだろ」
あまりにも図星をさされ、反論もできなかった。
「さっきだってあんた、めちゃくちゃ緊張してたじゃん。オレ、どうしたらいいかわかんなかったよ」
それはセックスのことですか、と聞くのは躊躇われた。
ふつう、緊張するでしょ。しないんですか。ああ、しないのかな? でも、浅倉くん相手に慣れたふうを装うのもバカらしいと思ったからしなかっただけだよ。だから待てと言ったんだ。落ち着いてて欲しければ、キモノなのに玄関先で脱がそうとしないでよ。いちおう導入儀式っていうものもあるのだ。しかもだって、ミズキさんから電話がかかってくるかメールが来るか気になってたし、ふだんは足を踏み入れない従兄のダブルベッドのある部屋へ誘ったほうがいいのか悩んで、悩んでるあいだに抱き上げられてたし。って、それもこれも言えないし。どうしたらって、べつにちゃんとしてたよ、よくは知らないけど。あれでいいんじゃないの? 違うの?
もう、なんで私がここで俯かなきゃいけないのよっ。
「ごめん」
私が言えないことばに押し寄せられて脹れあがっていると、浅倉くんが頭をさげた。
「すみません。ごめんなさい。情けないこと言って、根性なくてすみません」
「浅倉くん……」
なんでだか、ほっとして肩が落ちた。
「オレ、すごくかっこわるいね」
ウンと言っていいものじゃないだろうな。口を開くとまずいことを言ってしまいそうでうつむいていると、彼がぽつりともらした。
「あんたを楽にしてやりたいのに、でも、ぜんぜんダメだよね。オレがよけい、追いつめたかも」
気持ちはありがたい。それに、たぶん浅倉くんが思っている以上に、きっと、私は救われているのだと思う。でも。
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