3月25日 136
誰かというのは誰か、ふたりとも知っていた。かといって、今さら口に出すこともできなくて、そして質問者である浅倉くんだって言えないだろうと察した。
「男がいなくても生きてけるってあんたが自分で言ってたじゃん。だいたい、おとなしく人の言うこときくタイプじゃないでしょ」
そうかもしれない。
「なんで私、じゃあ、あのとき、言われるままになっちゃったんだろうね」
BFに請われるままセックスしてしまう友人たちを、私は醒めた目で見ていたはずだ。
「それ、女の人に話したことある? オレからするともう、その男が悪くてあんたはちっとも悪くないって言うけど……たぶんそれ、女友達に聞いてもらったほうがいいような」
十二分にまともなことを言う浅倉くんを見つめ、私は笑ってこたえた。
「来須ちゃんに話したら、そういうこともあるでしょうって、そういうものだって、ヴォネガットよろしくそう言われたよ」
男なんて、セックスなんて、多かれ少なかれそういうものですよ。
彼女の大好きなSF作家ヴォネガットの『スローターハウス5』に出てくる名文句――そういうものだ。
ほんとに、そういうものか?
世の中にはそんなことを思わないで感じないで体験しないで、幸せに、男性と生きてるひとだっているんじゃないだろうか。というか、いてほしい。
それに、私はあの「そういうものだ」という言葉を見るのは嫌いだ。といってあの本のの「そういうものだ」を全部「そういうものか?」という疑問文に読み替えようとしたらそれはそれで物凄く辛くて正直、三分の一も読み進められなかった。どうやらこの世は、「そういうものだ」でも「そういうものか?」でも、上手に渡っていけない厳しいものらしいのだ。
「でもね、来須ちゃんだから話せたんだと思うんだよね。彼女がわりと男性不審で男嫌いだったからで、私やっぱり、カレとラブラブでハッピーっていうひとには言えないし、言う必要はないとも思う」
私はそこで、髪をかきあげた。
「浅倉くんは、ほんとは、どう思うの?」
反射的に、言いたくないという顔をした。そりゃあそうだろう。私は首をふって、まあいいや、とつぶやいた。ひとに言われなくても、私は本当のところ、よくわかっているはずだ。
「……あの、その話って来須に」
問いかけの意味を察したとたん、彼はぶるぶると首をふって声をあげた。
「や、いい、こたえないでいいから!」
「そんなの、いつ話したかなんてとうに忘れちゃったよ」
浅倉くんみたいに記憶力よくないもの、と笑って返すと、彼は斜めにうつむいて小さくなった。
「来須にしてみれば、オレにしろ酒井さんにしろ、あっちこっちですげえ腹立ったと思うんだ」
うなずいていいものか悩んだ。
正確に、何月何日に彼女にその話をしたかは忘れたけれど、十月くらいだったとは覚えてる。酒井くんとホテルに泊まるのに、アリバイ協力してもらおうとしたときだ。
半年ちかくひっぱっていて、来須ちゃんに一言、先輩ってほんとにお姫サマなんだ、と驚かれた。すこし、私の耳には非難めいて聞こえた。彼女はべつに責めていたわけではないと頭ではわかっていたはずなのに、私は慌てて話しをした。被害者ぶっていたわけだ。彼女は、今度は黙って聞いてくれた。
それで一言、あたし、小六のとき塾の先生にカラダ触られたことあるから気持ちわかりますよ、と何でもないように告げた。先輩、驚きすぎ、と笑ってあと、ちなみに大森にもそのこと話してあるんですよ、と言い足した。酒井先輩に言ったほうがいいのかわかんないけど、あたしは楽になったかもしれない。時間のせいかもしれないですけどね。
自分を愧じた。
私は十分にオトナだったはずだ。自分のしたことに責任が持てる年齢だ。本当に力弱く子供だった彼女とは違う。性に無知だったわけでもない。ひとのせいにして弱者ぶるなんて間違ってる。そんなのは自分が愚かだったと吹聴することだ。
そう、強く感じた。だから私は話さなかった。
酒井くんはうすうす何かを感づいていて、でも、私は彼の質問自体を拒絶した。頑なに、口を噤んだ。三年間、それでもよく続いたと思う。感謝、している。それに、彼は私に誠実であろうとしたことも理解していた。そして、周囲が考えている以上に真剣だった。こたえられなかった私に非がある。
「その男のことも自分からふってないの?」
質問の意図がわからなかったわけじゃない。でも、私は首をかしげた。
「はじめてなのに、そんな酷いことされて、それで」
「初めてじゃなきゃ、いいの?」
私の硬い質問の声に、浅倉くんが震えた。
彼は勘がいい。言ってしまってから、後悔した。話の流れを変えてしまったな、と心中でつぶやいて、元に戻そうとするか、それとも、と思い悩んでいると、
「……ノーって言うのも勇気いるよね」
浅倉くんが、そう、もらした。
「うん」
「イエスって言うのも勇気いるしね」
「う、ん」
何故だか、泣きそうな気がした。
やだな。鼻の奥がひどく痛いじゃないか。これはまずいと、顎をあげて鼻をすすった。
「ほんとは」
浅倉くんがそこで言葉をとめた。彼の言おうとしていることを止めようとしたつもりはなかったけれど、勝手に口を出ていく告白があった。
「きっと、自分が悪いと思ったからシタんだと思うの」
「悪いってなんで」
「なんでって……」
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