3月25日 134
捧げもつと、浅倉くんの腕は重かった。そうか、重いのか。そんな当たり前のことに息をついた。肌のうえには血管が浮いてるし毛まで生えてるし、オトコって奇妙な生き物だと思う。私がパジャマにウールのカーディガンを羽織っているのに、上半身裸で汗をかいてるなんて、なんでこんなに血が熱いのか謎だ。まあそれは私の言い分で、彼からすると冷え性の私のほうが奇妙なのかもしれない。
結び終えたのに意地悪して何も言わずに立ち上がる。振り返った顔に、そこにいて、と命じて自室から「お道具」を取ってくることにした。
浅倉くんはほんとにおとなしくソファに座って待っていた。ただ、私の手に握られているものを見て片眉をあげた。縛られた後、彼は自分がリードを取るつもりだったのかもしれないのだけど、私はうろたえて弱気をみせたのを取り返したい。
「睫をビューラーでカールされるのと、裸体モデルになるのと、どっちがいいか選ばせてあげよう」
「化粧はご容赦願います」
馬鹿丁寧な即答が返り、私は笑って訂正した。
「さすがにお化粧はしないよ。クレンジングとかめんどくさいし。でも浅倉くん、子供の頃はけっこう可愛い顔してた気がする。お姉さんに口紅塗られたりした?」
口をへの字にまげてこたえないので、事実だと証明してくれた。自分でそう気づいたのか、ああ、と濁った声で顔をしかめ、小学校のとき、お姉さんの友達と一緒に遊ばれたことあると告白した。
「女の人って可愛いらしい顔して、どうしてああえげつないの?」
「ふだんそれだけ抑圧されてるからじゃない?」
私のこたえの仮借なさに、彼が眉をひそめた。それからぱたりとソファにうつ伏せに横になり、顔だけこちらにむけて口にする。
「じゃあもっと酷いことしてよ」
「浅倉くん、それは私を信頼してるんじゃなくて、私がそれをできないって分かったうえでの挑発で、あんまり意味がない。たしかにそのヒモは腕の力じゃ切れないと思うけど、見えるところにカッターもあるし鋏もあるし浅倉くんが本気で外そうとすればいくらでもできて、私にはそれを阻止するだけの力はない。足まで縛っちゃえば話はべつだけど、蹴られたらよけられない」
彼はひどく苦しそうな顔で唾をのみこんだ。それから何かを言いかけたけれど、すぐさま口をつぐんだ。自分はそんなことをしないと大声で返しても仕方がないと、彼は知っているはずだ。
「ごめんね、厭なこと言って。でも、私はいつもそう考える。それはべつに密室で男のひととふたりだけになるときに限って考える習い性じゃなくて、この世界そのものを捕らえるときの前提条件になってしまっていたような気がする」
「世界?」
「今は、そんなふうには思ってないよ。自分を無力な少女だって思うにはもういいかげん、年を取りすぎたしね」
浅倉くんはそのままの姿勢で、考え事をするような顔で頬をソファに押しつけていた。
私は部屋を横切ってダイニングの机横のシェルフからお絵描き帳と鉛筆をとってその位置で指示をだす。
「とりあえず、立って。コントラポストの姿勢で」
説明しないでも左足を前にして右足に体重をかけた。縛ったその瞬間からこの格好はまさに《聖セバスチァンの殉教》の主題に最適ではないか、と気づいていた。
うっすらとあばらの浮いたあたりに目がいくと、どぎまぎした。《ベルヴェデーレのアポロン》みたいな完璧なプロポーションを見てもなにも感じないけれど、こういう不均衡な身体のほうが倒錯的でアヤシイ気持ちになるものだ。
それから、さっきの腕の重みを思い出し、レオナルドやミケランジェロが解剖に夢中になった気持ちがほんのすこし、ちょびっとだけど、理解できた。自分がモノの表面、まさに上っ面をなぞっていただけなのだと、輪郭線にだけとらわれていたことに気がついた。質量というのは動かしがたく、機能もそこに結びついている。
「絵かくなら下、邪魔じゃない?」
実はそう思っていたのだけど、言いづらかった。彼は甘えたように苦笑した。
「脱げないんすけど」
「寒くないの?」
首をふったので、すこし考えてから脱がせるために歩み寄った。目の前に立つと、ただそれだけで熱の放射を感じた。
「風邪、ひかない?」
「だからオレ、病気したことないって言ってるじゃん」
キスしようとしてくる頬に手をやった。
「だめ。ちゃんと立ってて」
そうは命じてみたものの、ジャージに手をかけるのすら躊躇われた。異様に恥ずかしいことをしているという自覚に苛まれ、これはマズイことを始めてしまったと後悔した。
「男のひとって、ちょっとエライね」
「え」
「こんな恥ずかしいことさっさとできるって、すこしだけ尊敬する」
でも、自由のきく相手ならべつだと思った。モデルなら、縛らなくても後ろで手を組んでもらえばすむのだ。だ
「ねえ、もういいよ」
「もうすこし、やれない?」
首をふると、続いて乞われた。
「オレ、あんたと違って痛がりじゃないし、ほんとに平気だよ」
「浅倉くんは強いから」
口をついて出たのは、褒め言葉ではなく拒絶に聞こえた。でも彼は、ほんとに、と勢い込んで聞き返してきた。
「オレもう、ここに来て口から心臓飛び出すかって思う瞬間、何度あったかわかんないくらいなのに」
「そうなの?」
「そうだよ! 縛ってとか言って思いっきり引かれてるし」
「とまどってはいるけど、嫌いじゃないよ」
次の瞬間、キスされた。性急な荒々しさに首をふるかわりに一歩さがるだけで簡単に逃れられた。
「あ」
声をあげたのは双方同時だったかもしれない。
「これ、外して」
哀願されて、私としたことが、まんまとのせられた。
「だめ。続けようって言ったの浅倉くんじゃない」
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