3月25日 133

 だいたい口割るって、それじゃ私が犯罪者のようじゃないか。私はそんなにチャレンジ精神旺盛じゃないんだけど。もうふつうに、あんまり変わったこととかしたくないよ。めんどくさいし恥ずかしいし大変そうなこと嫌いだし。って、私、浅倉くんにさえなかなかこういうこと言えないのか。気が弱くて嫌になる。なんとも言いようのない惨めさに押し潰されそうになった瞬間、

「イヤなの?」

 首をかしげて問われていた。

「……わからない」

 そう口にして、私はこの難問から逃れられるものと期待した。ところが、そうはいかないのが現実だと思い知る。

「わかんないならやってみて。あんたは少し、自分で動いたほうがいいよ」

 ちょっと待て。

 それは私が寝転がっていただけだと言いたいの? 実際そうだけど。だって、なんにもしないでいいって言ったじゃない。あれって信じちゃだめだったの?

 私の混乱を見透かして、浅倉くんが髪をかきあげながら瞳をのぞきこんできた。

「オレはあんたの快楽に奉仕する奴隷になりたいって真剣に思うことあるけど、たぶん、それもきっと迷惑だよね?」

 真顔で言われたようで、返答に窮した。なんでこう、変に揺さぶりをかけるかな。奴隷って、そんな単語を現実で口にして恥ずかしくないのかしら。というか、そういうのはにやけた顔で言ってください。そしたらすぐさま突っ込み返すから。

 とはいえ浅倉くんはこちらの困惑にもいっこうに怯む様子がなかった。つづく言葉は予想もしない熱さでもって語られた。

「オレ、あんたが悦んでくれればいいだけで、いろいろ試したいって言ってるんじゃないんだよ。矛盾してるかもしんないけど、オレにもさせたくないこと山ほどあるし」

 そう、なんだ。

 たしかに、どこからどう見てもウソをついている顔じゃない。誤魔化しや隠し事、ましてや皮肉めいた調子さえ影も形も見当たらなくて、こちらも素直に応答しなければならないような気がしてきた。 

 ああ、ほんともう、男ってよくわからない。いや、この場合、目の前のひとがわからないというべきか? 

 そして、私が混沌とした思考をもてあましてるというのに、浅倉くんは清々とした顔で、ヒモ、と口にした。その様子がリードをもたせようとする犬のように期待と信頼に満ち溢れていたために、つい絆された。

 でもな。サドの著作だってマゾッホの『毛皮のヴィナス』だって読んだことあるのに。なんか、違う。なんだか、絶対に間違ってる気がする。こうじゃないぞ、きっと。

 和室へとむかい、風を通すためにかけておいたキモノ一式から腰紐だけを引っ張った。振り返ると、ソファに座っている。しかもスタンドだけ点けて、Tシャツ脱いでるし。その目が、ローテーブルのうえの薔薇の花を見ている気がしてドキリとした。その視線を遮りたくて、すこし遠い位置から声をかける。

「ほんとに、するの?」

「あんたが嫌じゃなきゃね」

 飄々と、言い切られた。もうちょっと、なんというか、照れだの戸惑いだのがあってもよいのではなかろうか。

「もしかしなくても、慣れてるの?」

 彼は膝の上に肘をついて額をささえ、

「逆は。あんたのいう盛り上げアイテムとしてなら、そういうのが好きな女の子ってわりに多いっつうか」

「男のひとに合わせて演技してあげてる場合もあるけどね」

 淡々と述べて見おろすと、うん、それもあるね、とこたえられた。たくさん女の子と付き合ったことのある男らしい言い分だ。

 その顔を見て、私は自身のからだの何処かで何かを達観し、ヒモを半分に折った。日本にも団鬼六の小説も伊藤晴雨の責め絵というのもあったと思い浮かべながら、今現在、私の手助けになるものではないとがっくりする。ちゃんと読んだり見たりしとけばよかった。意外に探究心不足であったかと反省する。

 ひと息ついて、意識して能動的に動くというのは、けっこう大変なものだと思い知る。遣り甲斐がありそうだけど。

 はい、と両手を組み合わせて前にさしだす顔を見つめ、そこに、言うことを聞いてくれていた時分の素直さとべつの、奇妙な期待を見つけた。その瞬間、口をついて出た。

「前じゃなくて」

「ハイ?」

「こういうのは、後ろでしょう」

 媚びるような上目遣いにむけて、ゆったりした気分をよそおって微笑んだ。

「うわ、マジですか?」

「当然です。甘いよ、浅倉くん」

 余裕ぶって返答した。

 とはいえ、ひとを縛るのは難しかった。すなおに背中をむけられたものの、手が震え、上手にできなくて涙をこぼしそうになった。ただふたつのものを結わえて離れないようにするだけの、すごい簡単なことのはずなのに、片結びがいいのか蝶結びがいいのか、手首を交差させたほうがいいのか、痛くないように、けれど外れないようにするにはどうしたらいいかわからない。

「できない?」

「……加減が、わからない」

 長い吐息をつかれて、うなだれた。自分がひどく落ち零れている気分になった。跳び箱も飛べたしマット運動も得意だったのに、逆立ちだけはできなくて体育館の端にひとりで置いてかれたときを思い出した。

「加減は、難しいよ」

 なにもこたえることができずにいると、浅倉くんが低い声で言った。

「気にしないで、痕つくくらい結んで」

 そんな、メリヤスの紐で痕つけるほど結んだら、鬱血して危険だよ。そう考えたら、手の震えがおさまった。できないできないと思っていたうちは、失敗するのが怖かったからだ。上手に結べなかったら解いて結びなおせばいい。浅倉くんは痛かったら痛いと言うし、すくなくとも、そういうヘンな意地は張らないと思った。

 背を向けた男の手首はうっすらと汗をかいていた。それを斜めに交差させて、十字に紐をまわした。もやい結びとかすると、解けなかったりするのか。ひとを縛ると思うからびくびくするのであって、紐だけに、結ぶことだけに集中すればいいと気がついた。

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