3月23日 宵越 96

 彼は額に手をあてて、口にした。

「姫香ちゃん、だってそうでしょう? 君が今までに誰とどうしたか僕は知らない。まあ僕みたいな男女どちらでもOKっていうひととは初めてかもしれないけど、それでもすることはそんなに変わらないとわかってるはずだ。なのに君は緊張してる。その場合は、理由は二つしかないんだよ。すごくしたいか、ほんとはしたくないか、どっちかだ」

 思わず、呻き声をあげそうになった。

 それでも、いちおう、言っておいたほうがいいと白旗をあげる気分で口をはさむ。

「……あんな啖呵きっておいてなんだけど、実は私がこういうことに慣れてないというか、はっきりいってすごく苦手ってのは理由に入らないの?」

「それも、あると思ってる。いつもそこだけは相手任せでしてきたんだろうなって」

 彼はかすかに笑った。

「だから今も、僕はこんなふうにうだうだしないで、さっさと抱き上げてしまえばいいとはわかってる。そのほうが、お互い負担は少ないだろう。でもね、せっかくだから、君が言うように痛い思いをしながらやっていくほうがいいと思うんだよ」

 私が黙っていると、彼は前髪を弄るようにして続けた。

「たとえば、君はきっと僕より浅倉のほうが好きなんだろうに、どうしてか、僕のほうを選ぼうとしている。それは僕がさんざん脅したからだって君は言うけど、君は脅されようと何しようと、ほんとは全然、誰かや何かに屈するようにみえない」

「それは、ないよ。人生ずっと、世間様に負けっぱなしだって」

「うん。姫香ちゃんのセルフイメージはそうなんだろうけど、すくなくとも僕には、そうは思えないんだよ」

 私は唇をかんで、うつむいた。

 彼はもう一杯、ワインをついだ。飲む、と問われる。私は減ったグラスをさしだす。

「とするとだね、なにか、君を自発的に僕のところへと向かわせるべき契機というのが、今日、あれからあったんじゃないかって推理することで、僕は自分の気持ちを整理しようと考える」

 ミズキさんらしい物言いだなあと感じていた。その洞察に、彼は苦笑してつづけた。

「どうせだから言うけど、結婚するなら僕のほうが得だって君は考えてない。あたりまえだよね。表向きはともかく、両親や親族とうまくいってないんだから。その一点だけでも、僕は君に頭がさがるような気がする」

「あの、ご両親はミズキさんが、その……」

「男と寝てたってこと? どうやらうすうす感づいてるみたいだね。母親は認めたくないから見合いの話をもってきたりするよ。さっきの返事って実は、それも含んでる」

 私の予想ははずれていなかったわけだ。

「ああ、病気の心配はないよ。この二年の潔斎時期にひととおり調べてあるし」

 EDで病院に行ったのかどうかは、聞けなかった。その原因についても。

「そういえば、ロリコン男が浅倉に似てるってこと、彼に話した?」

 言いたくなければいいけど、とミズキさん。

 私は包み隠さず、浅倉くんの反応を、彼が口にした不思議を告げた。ミズキさんは真剣な顔でそれを聞き、瞳を伏せ頤に手をあてる考えるひとスタイルでしばらく固まっていた。

「……変、でしょ?」

「いや」

 首はふらず、声だけで否定した。それからしばらく、また目を閉じた。

 名前を呼ぶとようやく、羨ましくなるほど優美な睫をあげて私を見た。

「変なことは、ひとつもないよ」

「そうかなあ」

「帽子かぶってなかったって聞く方法は、どっちともとれるような言い方だ。それに君、帽子率高いし」

 たしかに帽子はけっこう好きでかぶってる。

「じゃあ、赤いオーバーの件は?」

「女の子の着る服のイメージでしょう。まさに赤頭巾ちゃんってやつ」

「でも……そんなこと、自分だって言う必要がある?」

「あるよ。だってもう、そんなに怖くないんじゃない?」

 あ、と声がもれた。頬に両手をあてて、考えた。ほんとうだ。顔が見えなかったときのおぞましさは払拭されていた。

「でしょ?」

 にっこりと微笑まれていた。

「うわ……私って、すごく単純。呆れた」

「そんなことないよ。それは浅倉がえらい。彼は、夢のシンクロニシティーを利用してカメオ出演したと告げることで、君の記憶を塗り替えた。つまり、それが誰ともわからぬ恐ろしい性倒錯者じゃなくて、君のことを好きな男だったんだよっていう説明をしたわけだよね」

 それほど高度な技を使われたとは思わなかったけれど、解説されるとそのようだった。

 でも、浅倉くんがそんな複雑なことを咄嗟に思いつくとは信じられない。それよりはまだ、ほんとにそうだった、と考えるほうがソレらしい気がした。

「うまく、かわされたな」

 驚いて顔をあげると、彼はかわらずにこやかだった。

「まあ、ちょっとしたイタズラだけど、ね」

「悪辣すぎない?」

 私の声が尖ったのに、彼はかるく肩をすくめただけだった。

「ミズキさん」

「必死だったんだよ」

「だからって」

「うん。でも、結果オーライだ。姫香ちゃんにとって僕は性的な対象外だし、浅倉以外、僕は知らないからね」

 ん、と眉を寄せた。その言い方は。

「期待したの?」

「まさか。どう料理するかなあって転がしただけ。彼が失敗すればそれまでだ」

「それ、彼を信用してるってことだよね?」

「君を好きな浅倉を、信じてるってところかな」

「どう違うの?」

 彼はそこで首をかたむけた。

「……僕たち、浅倉の話ばっかりしてるよね」

 思わず、吹き出してしまった。けれど、彼は笑わなかった。私は息をとめて、ミズキさんの顔を見つめた。

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