3月23日 宵越 95

「こと恋愛においてはね。どうしても陶酔感に欠けるところがあるから」

 彼はそこで吹き出すように笑った。遠慮会釈のないようすにむくれると、でも、男のことはよくわかってるよね、と真顔で返された。

 どうこたえようか思案するあたりに、たしかに事実かと納得した。私には、ありのままこたえたほうがいいという発想がない。ウソはつかないけれど、自分の思っているとおりにこたえても相手が、男が、喜ばないという訓練が備わっていた。

「僕にはすごく蟲惑的だけど」

「コワクって最近あんまり聞かない言葉ね」

 雰囲気を壊すつもりはなかったけれど、このミズキさんに褒められるのはむず痒いをとおりこして落ち着かない。受身にまわるのがこわかったし、何かを暴き立てられそうで、それはチガウと感じていた。

 そうしたこちらの怯えを察知して、彼はうつむいた。

 臆病を謗られなくてほっとしたと同時に、これはなかなか先へは進めないと気がついて笑いそうになった。これは、まずい。じつのところ予想外。さて、と思案したところで声がかかる。

「姫香ちゃんて猫みたいって言われない?」

「言われたことはあるけど、私は自分を猫だと思ったことはないの」

 不満を表明すると、彼は肩をすくめてこたえた。

「まあそうだね。猫と女は同種のものでコケットリーの象徴だ。君がよろこぶ類いの生き物じゃないよね」

 その通り。猫と言われて喜べる女なら、もっとなんだか人生楽だった気がする。

 彼は、動物にたとえるなら僕だと何になるの、と訊いてきた。

 私の好みでいえば、ミズキさんはそこにいるだけで存在感のある、繊細と高貴と人馴れなさの入り混じったボルゾイだ。狼狩りの猟犬だったということはきっと勇敢なのだろう。狼……と、思ったことはこの際、忘れておく。

「ミズキさんは、犬だったらボルゾイかな」

 そう聞いて、かるく眉を寄せた。おや、お気に召さなかったかしら。美男の王子様ぽくて最高に素敵なのに。

「姫香ちゃん、自分はどうなの」

 北海道犬と言いたいけれど、否定されそうだったのでやめた。こういうときは質問返しに限る。

「ミズキさんは私を猫だと思ってるんでしょ?」

「いや。君は猫ほど本能的で気まぐれでもない。かといって媚と計算で生きてるわけでもない。たぶん君はそんなに賢くなくて、その分、僕はいつも読み違う」

 堂々とバカだと評されたものの、反論できなくて唇をむすぶ。彼はこちらを見て、私の不機嫌を存分に味わったようだ。

「反論しないの?」

「学生のときにね、私のBFを好きだっていうバイの男の子に、深町サンってチョウドイイって言われたことがあるの」

「ちょうどいい?」

「そう。手が届かない美人でもないし男に劣等感を抱かせるほど賢くもなくて手を焼いて困るほど性格が悪いわけじゃない」

 龍村くんはよく辛口批評をひけらかしてくれたものだけど、あのときはさすがに、機智のある言葉ではなかった。

「それはでも、敗者の、嫉妬混じりの卑屈な賞賛だよ」

「違うよ。あらかじめ反論を封じるために褒めたようなふりで、ブスでバカで性悪って見下されたか、大した女じゃないくせに一生懸命演技して努力してる卑屈さをすっぱぬかれただけだよ」

「そう思ったのに言い返さなかったの? 勝者だから?」

「もちろんそれもあっただろうけど、反撃できるほど余裕がなかったの。言った相手も私が傷ついたことに驚いて、始めてしまった会話をどうやって終わらせるか悩んでた。私、バカだけど弱虫だから、少なくとも悪意や敵意には鈍くないの。頭のいい男のひとは、そこをよく、勘違いするよね」

 ミズキさんがうっすらと微笑んだ。その意味がわからなくて首をかしげると、

「たいていの男には想像力がないんだよ」

「え、でも」

「言葉の裏を読む習性や先を読む能力は女性に比べてないに等しい。僕みたいに子供のころから玄人の御姐さんたちに可愛がられて苛められて徹底して鍛え上げられでもしないかぎり、目の前のことしか見えなくて、あとはひたすらそこで対処するだけで手一杯なのが現状だから」

「でも、男のひとってよく仕事でも長期的展望とか口にするじゃない」

「そういうのは、ない」

「ないの?」

 裏返った声で問い返すと、彼は肩を揺らして破顔した。

「姫香ちゃん、騙されちゃだめだよ。僕なんて、はったりでしか生きてないもの。少し賢ければ大きな旗振った奴にひとがついてくっていうことくらいわかる。これだけ複雑で混乱した世界に生きていて、歴史に名を残す天才や超能力者でもないかぎり、天下国家の大計はもちろん、小さな事業所の中長期計画でさえ現実的には予測不可能だ」

 ただし、と彼はつけくわえた。

「いま目の前にあることにだけ命を懸けてやれるかどうかで決まる。それがうまくすれば十年でも百年でも続く」

 そんな瞬発力だけのような生き方は苦しいと言おうとして、ミズキさんはでも、それをしているのだと気がついた。やれますかと問われて、やれますと言い続け、実際に出来てしまうという事実は、はためには恵まれた資質や幸運だと思われるのだろうけど、彼の真実は努力なのだ。

 ワインに口をつけたところで、彼が、やっぱりこちらを見ずにたずねた。

「どうして僕なの」

 私はグラスをおいた。正直、かなり呆れていた。

「ミズキさん、初めてカレシのできた十代の女の子じゃないんだから、ワタシのどこが好きなの、なんて聞くの恥ずかしくない?」

「僕は、恥ずかしくないよ。それを知ることは大事なことだと思ってる」

 彼の意図はじゅうぶんに伝わってきた。こんな離れた位置で、お互い距離をもって接している関係でそれを口にすること自体に、違和感があるのだ。膝をおこそうとすると、そこにいなよ、と彼が命じた。

「なんで」

「君はすぐ強がるから」

「ミズキさん、そういうのは」

「セックスなんて、簡単にできるんだよ」

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