3月23日 宵越 94

それを聞いても、足が動かなかった。こんなこと、初めてのときにだってなかったというのに、変だ。まああのときは、とりあえずしてしまえばいい、くらいのヤケッパチな気持ちのせいだったかもしれないけれど。

「座れば? 畳の上なら、そんなに冷えないでしょ」

 お言葉にはすなおに従った。主導権を握られるどころの話ではない。

「僕はそのひとが音を楽しみたいって思ってるんじゃないかぎりは、好きなひとといるときは音楽はいらないって思うんだよね。相手の声や息遣いに集中したいじゃない?」

 彼はにこりと笑ってこちらを見おろした。ポリスの名曲を思い浮かべて、ここは照れるところなのだろうけれど、私は妙に納得した。

「ミズキさん、ひとの呼吸よむの得意だよね」

「それ読めないと、なんにも始まらないよ」

 まあ、事実だ。私は相手のそれに気をつけてはいるけれど自分の呼吸を制御できない時点で勝負事をする能力に不足がある。

 彼はソファに腰かけてどこかあらぬほうを見ながらきいた。

「姫香ちゃん、子供のころに何になりたかった? やっぱり画家?」

「ううん。ほんとは王子様だったんだけど、それはさすがに変だろうって思ったから、冒険者だか探検家だか、言ってた気がする」 

 かるく笑ったのは、王子様でなく、冒険者のところだった。

「ミズキさんは?」

「表向きは宇宙飛行士って言ってたかなあ。男の子っぽい感じで受けがよさそうだって思ってね。作曲家や音楽家とは言いづらかったし」

「表向きじゃないのは?」

「錬金術師」

「いわゆるアルケミストのこと?」

「そうそれ。子供心に魔法使いよりも錬金術師のほうがカッコイイって思ったんだよね」

 自分もけっこうぶっとんでると思っていたけれど、ここに、負けないひとがいた。王子様はいまもこの世に存在してるけど、小説のタイトルじゃあるまいし、さすがに錬金術師はいないだろう。それとも、ほんとはみんな、こうなのだろうか。運転手さんとか花屋さんとか答えてたけど、やっぱり遠慮があったんだろうか。

「ちなみに浅倉はね、サラリーマンってこたえてたって」

 その名前がさりげなく出たことで、私はちらりとミズキさんの顔を盗み見た。やわらかな明かりのもとでは切れ長の瞳の印象が強まり、いつもよりずっと女性的な顔をしていると感じた。

「まあ、彼の家が自営業だってことなんだろうけど。で、本音のとこはどうなのってきいたら、詩人ってこたえるんだよ。自由気ままな感じがするからって。しかも食えてないけど今もまがりなりにも詩を書いて、サラリーマンなんだから、始末に終えない奴だよ」

 そう話すミズキさんの表情はとても明るかった。ああ、浅倉くんのことがほんとに好きなんだなあって、感じた。

「浅倉の詩、読んだことある?」

「こないだインディーズのバンドが使ってくれそうだって言ってたのだけ」

「ああ。あれは出来が悪い」

 ミズキさんらしい断言に、目をまるくした。

「浅倉は器用すぎる。意外とちいさくまとまっちゃってる感じなんだよ。もっと突き抜けていい」

 ふ~ん、と鼻をならして聞いていた。まあたしかに、今どきペトラルカ風に不在の恋人を嘆く詩ってのもなんだなあと思ったのは事実だけど、ポップ・ミュージックだか歌謡曲的にはアリじゃないかしら。いや、それよりその詩を読んだ私の気持ちを斟酌してほしかったのだが、話はずれた。

「その点、君のほうが大化けしそう」

「だといいけど」

 我知らず、吐息がもれた。ミズキさんがゆっくりと立ち上がり、コタツのうえにワイングラスをおいた。チーズの載ったお皿をその横にそろえてからコードを入れてスイッチもつけてくれた。

「そこ、座るといいよ」

「うん。ありがと」

 すっと両足を揃えた一足立ちで膝をおこし、コタツに入る。やっぱり喉が渇いていたらしく、かろやかな赤がすべるように胸へと落ちていく。

「氷いれるほどのこともないでしょ?」

 コルヴォだ。シチリアで飲んだのは白で、赤は初めて。こんなのを飲むと、パスタ・アッラ・ノルマの、オリーヴオイルでくたっとした茄子とリコッタチーズのせいかやたら豊潤なトマトソース、あの大味で濃密な現地モノを思い出すじゃないか。

「うん。口の中がどうしようもなく甘くて困るカッサータが食べたい」

 甘いものの買い置きはないんだよね、とくすくす笑って謝られた。チーズはカマンベールとチェダー。この気軽さがでも、心地いい。そうして安心して堪能していると、

「ふだんは酒かビールっていう浅倉の、あのワイン好きは君のおしこみだね」

 一瞥をくれた。

「仕込んだりしてないよ」

「もちろんそうだろうね。でも、風呂上がりにペリエ飲む柔弱な感じって、らしくないって思ってたんだよ。女の子みたいに、たまにそういうことをする」

 君ならわかる。

 そうつぶやいて苦笑する彼に眉をひそめたものの、なにも言わなかった。

 こういう感覚は、極小的異文化接近遭遇の様相を呈して、嫌いじゃない。それに、へえ、と目を丸くする相手に一々反応していては身がもたない。でも、前に付き合っていた相手の癖や名残を見つけたときにそれとなく嫉妬したり矯正したりしないから、別れた奥さんとヨリを戻されちゃうのよ、と友達が私を叱った。もっともだけど、どちらも巧みにできると思えなかった。

 その点、ミズキさんは素直で可愛らしく、この場合は対象への奇妙なねじれ具合も加わって、理想的な反応に見えた。そう思ったのが伝わったようで、彼は微笑んで告げた。

「君はきっと、自分のことをあんまり女性的だと思ってないんだろうね」

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