3月23日 宵越 93

 夢だと思う。

 片翼の天使がやってきて、探し物を手伝えと私に言う。竜退治の聖ミカエルのようないかめしい鎧兜を身にまとった堂々たる美丈夫のくせに、荘厳とは程遠く口が悪い。

 探すのはその背中の羽根の片割れかときくと、傲然と首をふる。ばか者とののしられ、こいつ、使いものになるのか、と舌打ちされた。面と向かってこいつ呼ばわりで罵倒され、腹が立って当然のところだというのに、天使のようすがあまりに切羽詰まっていて、ひどく心配になった。

 時間がないのだ、早く見つけ出せ、と天使がイライラと口にした。

 だから何を探すの、と質問すると、天使が頭をかかえ、

 これだから人間はダメだ、と文句をいう。

 じゃあ神様にそう言ってよ、と言い返すと、相手ははたと顔をあげる。なんだおまえ、知ってるんじゃないか、と。

 神様を探してるの? 

 ちがう。いや、そうかもしれないが……彼らは何処かへ行ってしまった。

 天使は困惑した顔で、私を見おろした。そして。

 どうしておまえたちはそれでも生きていけるのだ? 


 わからない。


「姫香、ちゃん?」

 自分でもびっくりするほど心臓が鳴っていた。事態を把握するのに数秒、要した。

「魘されてたから、起こしたほうがいいかと思って……」

 頬にあてられていた手が、ゆっくりと離れた。遠慮がちな触れかたに、ようやく電話を切る寸前に自分がなにを言ったのか思い出して、顔に血が上る。

「なんか、言ってた?」

 半身をおこし、手櫛で髪をととのえながら念のため問う。

「ん、それは」

 彼はソファの前に片膝をついたままうつむいて、それからふいに、口許に手をやって目を伏せた。

「ミズキさん?」

「ウニュウニュいってた」

「うにゅうにゅ~?」

 彼はうなずきながら、暗がりで肩を震わせて笑っていた。

「姫香ちゃんて、姫香ちゃんて、ほんっとにもう、なんていうか……」

 声が途切れとぎれだ。苦しそうに身をかがめ、涙まで浮かべている。

「僕もう、ああもしてやろう、こうもしてやろうって自分でもさすがに危険かなって思いながら帰ってきて、いざ玄関あけてここまできたら、君、寝ながらウニュウニュいってるんだもん。すごく、気が抜けたよ」

「私も、寝るつもりはなかったんだけど……」

 ほんとに眠れるなんて思っていなかった。私は電車のなかでも寝たりしないし、よそにいくとなかなか眠れないほうなのだ。どうしたものかと小さくなっていると、ミズキさんはこちらをむいて首をかしげた。

「僕ってそんなに魅力ない?」

 かわいい顔だった。すこし拗ねているようでもあったけれど、それほど不安なようすでもなかった。取り繕った表情のよそよそしさはなくて、それでもやはり、相応の気取りがあった。気取りというのがまちがいなら、矜持ともいえそうだった。

「私、のどが渇いたんだけど」

 返答よりまえに、自分の生理的欲求をみたそうと考えた。ミズキさんははぐらかされたと思わなかったようで、なに飲む、と腰をあげた。

「お湯わかしてないの。冷蔵庫になにかある?」

 台所から、声がかかる。

「ミネラルウォーター、あとはビール、じゃなきゃワイン、ウィスキーは君、飲まないね」

「ワイン、かな」

「ここにはボルドー、ブルゴーニュなんてのはないよ」

 苦笑で前置きされた。誰もペトリュスだのシャトー・ディケムだの言わないよ。

「そんなんじゃなくていいの。白があれば、白で。なければ軽い赤に水と氷を入れてごくごく飲みたい気分」

「じゃ、これだ。チーズでいい? あとは缶詰の兎のパテ、アスパラガス……」

「なんでも、いいです」

 ソファから離れておトイレに行き、洗面所で手を洗ってうがいをした。戻ってくると、イサム・ノグチのライトが灯されていた。足をとめると、彼が笑って口にした。

「あいにくキャンドルなんてものは用意してなくてね」

「音楽は?」

 元DJがこういうときにかける曲というのに興味津々だった。ところが彼は、君の好きに、という。

「ここは本領発揮するところじゃないの?」

「ん~、そうかもしれないけど、僕は音がないほうが正直、落ち着くんだよね」

 そうなのか。日曜夜のラジオ番組で私を腰砕けにした魅惑のラヴチューン揃い踏みということにはならないのがおかしかった。

「姫香ちゃん?」

 歩きながらいぶかしげに目を細めたミズキさん。その手には、グラスと葡萄酒の壜が握られている。サイドテーブルにおろしてから、その場所で振り返った。

「もしかして、緊張してる?」

 私は、居間の入り口で立ち尽くしていた。

 情けないことに、うなずくのでさえ頬や首がこわばっていて難しかった。

 ミズキさんはすこし困ったように眉を寄せて、こちらを見守っている。

「どうしよう……」

「どうしようねえ」

 彼は歌うようにそうくりかえし、なぜか上機嫌な顔で微笑んだ。それからふたつのグラスになみなみと注いで、乾杯も何もなく自分だけ一気に煽る。すぐにまた、そそいで飲み干してしまう。

「ミズキさん?」

「まあ、ゆっくりしようよ。今頃になってなんだけど、姫香ちゃんの嫌がることはしないって約束したのを思い出した」

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