3月23日 夕刻 92

「姫香ちゃん、そういうこと言っちゃ、ダメだよ」

「なら、今から私がそっちに行く」

「なにが、あったの?」

 ほとんど怯えるような口調に、私は拳で涙をふいた。今になってこわがるとは情けない。

「ミズキさんのほうがほっておけないって感じる理由じゃダメなの?」

「それは……僕が君を」

 うろたえている。遅いって! 今さら自分を恥じるなら、さいしょっから言うな。込み上げる怒りに、声が震えた。

「そ、う……だよね。ミズキさんはひとのこと脅したんだよ。銃を持って私に向けて使うんじゃなくて、自分の頭につきつけて言うことをきけっていうだけの違いで、やっぱりそれって間違ってると思うの」

 そして、私も遅い。すごくトロイ。あそこで怖くて泣くんじゃなくて、あのときに、理論整然と相手を説得できなかった。

「私、ミズキさんのそういうやり方は、ぜんぜん正しくないと思う。とても有効だって証明されちゃってるから悔しいけど、でもそれは、なんか絶対に違うから。そういうことは、しちゃいけないよ」

「それで?」

 彼はうんざりした様子でため息をついた。ふつり、と自分のなかで何かが切れた。

「ミズキさん、私に罵られる覚悟、ある?」

「やり返される覚悟があればどうぞ。やられっぱなしは性分じゃない。先手をあげるよ、僕は負ける気がしないから」

 いきなりの攻撃にも、彼は生来の反射神経のよさで冷然と言い返す。

「あのね姫香ちゃん、僕が浅倉みたいに君に足蹴にされてよろこぶと思う? 下僕根性丸出しでかまってもらえるだけで幸せな奴ばかりじゃないんだから、僕みたいな人間を挑発するのはやめたほうがいい」

「それは私を甘くみてるって言ってるよ」

 断罪には、彼はすなおに応じた。

「そうだね。ただ、僕には出来て、姫香ちゃんには出来ないことがある。僕はそういう君が好きだった……」

 そこで、余韻にまぎらわせて終わりにしようとする魂胆が気に食わない。

「過去形か。そういうの、意気地がないっていわない?」

 電話のむこうの息遣いは変わらなかった。この程度じゃ、だめか。

「私に卑怯なことができないかどうかは、私が決める。ひとに線引きしてこういうものだと思って侮らないこと。だいたいミズキさん、かっこつけすぎだから。私はかっこつけのミズキさんのほうが好きだけど、たまには計算じゃなく本気で慌てふためいたりすると可愛げが出ていいと思うよ」

 相手がなにか応戦する前に言い切った。

「私は逃げも隠れもしないから、痛むところを探られて泣いてもいいって思うなら帰ってきなよ。ここが、ミズキさんの『家』なんでしょ? 逃げ回ってもしょうがないじゃない」

 一呼吸おいても、声が返らなかった。

 その沈黙に気をよくして、私はつづけた。

「あ、でも、クラブに行くって約束してるならいいよ。日々の営業は大切だからね」

 Merdeという、およそらしくない罵り言葉が小さく聞こえた。糞と言えるならいい傾向じゃないか。無理をして、いいひとぶってるのはどっちだ。私もミズキさんも、猫をかぶってる度合いじゃいい勝負だろう。おっきいのを、すご~く立派な細工物を着込んでるに違いない。

「じゃあね」

 切ろうとしたところを、ものすごい剣幕でとどめられた。

「ほんとにそこにいるね?」

「ウソつかないよ」

 呆れて返すと、さらに。

「すぐ行く。逃げたら承知しないから」

 私の返答を待たず、一方的に切れた。

 もしや、煽りすぎたか。

 まあいいや。もう、いい。これで、いい。

 握りしめた携帯電話。電池がもう、残りわずかだ。思い切って、電源をオフにしてしまいたい衝動にかられる。

 浅倉くん。

 彼から、かかってくるのを待つ自分は嫌いだ。かといって、ミズキさんを選んで結婚することにする、いやもっと直截に、寝ることにするからと言う必要はないだろう。

 彼と再会して、自分が年をとっていくことに気がついた。すごく長いあいだ離れていたはずなのに違和感がなくて、それはでも、彼の言う通り、あの頃とちっとも変わっていない自分のせいかと危ぶんだ。流れていく時間の仮借なさに目を背けながら、私は、自分が独りで蹲って泣いている小さな女の子であることをやめないできたのかもしれないと情けなくなった。

 奥の六畳だけ雨戸を閉めてなかったことを思い出し、立ち上がる。

 この家に来たのはこれで五回目。でも一度も、二階に上がったことはない。踏み込んではいけない場所だと、それはわかっていた。開かずの間を覗いて殺される妻のように、タブーを破るのは危険だ。この好奇心はいけない種類のものに属する。それはひとのプライヴァシーを侵すものだという意味だけでない。

 私は、アサクラ君に、自分がどんな絵を渡したのか覚えていなかった。彼がそれをずっと持っていたということ、目に見える場所においてくれていたという事実、それが、気になって仕方がない。

 たった一枚の絵が、私をここに導いて連れてきた――そう考えると、私は……。

 やっぱり、それはだめ。見たいなら、正々堂々頼まなきゃ。そうすればいいだけの話でって……それは違う。私はこれを最後に、もう、その絵を見ることができないかもしれないと感じている。その予感の寂しさはたとえようがなかった。

 今、浅倉くんから電話がかかってきたら、私はどうするだろう。ちゃんと、自分のしようとしてることを口にできるだろうか。

 握りしめたままの電話は、しずかだ。

 木造家屋のきゅうな階段に座り、今、この静謐を押し破るほどのものを気にかけているのは、幼いころの自分だ。

 この世は危険がいっぱいだと、小さなときは思っていたような気がする。見るもの触れるものがすべて恐ろしく、それゆえにとても美しかった。いつ、私は、あの素晴らしい楽園をあとにしたのか、忘れてしまった。

 そして――ミズキさんの欲しいのは、ホーム・スイート・ホーム。

 核シェルターなみに頑丈で強固で、それでいて甘く、やさしい。内側には乳と蜜があふれる楽園でありながら、外側は完全武装で誰からも何からも脅かされないという保障つき。

 どうしてそう、極端になってしまうのだろう。彼くらい才能があるなら、この地球ぜんぶが自分の家だと思うくらいの、ひろい度量があってもいいのに。

 私が無邪気に、大らかにそう思うのは、今までひとに愛されて育ってきた、その恵まれた環境のせいだろうか。その幸運に感謝してはいる。でも、不幸で辛い思いをしたひとは、自分と、この世界の幸福をあきらめてもいいはずはないと、どうしてか私は考えてしまう。それってやっぱり傲慢な思い込みだろうか。

 彼の望みは、ひとまずは命の安全が保障される国にいるからこその贅沢ではなく、やはりここもアブナイと感じるせいかもしれない。毎日のように民族紛争やテロ、飢饉、大災害の情報を知り、危うい均衡のうえに成り立つ世界を感受して平気ではいられないというごく当たり前の気持ち?

 または、小説のタイトルのように「すべての種類のイエス」を望むことだろうか。受け入れられている、疎外されてないというただそれだけのことなのか……。

 ふっと笑って立ち上がり、帰ってくるひとのために門灯をつけて玄関を明るくする。お湯をわかしておこうかと考えて、やめる。携帯電話をコタツに置いてからミルクベージュのソファに腰をおろす。そのまま、ひとがいないのをいいことにスカートなのに足をあげ、膝をかかえて丸くなって目を閉じた。

 こういうときこそ絵をかくと気持ちが落ち着くはずなのに、それは逃げだと感じている。

 ミズキさんに主導権を握られるのは腹立たしい。それにこわい。すごく、こわい。だからこそシミュレーションしようとするのに、うまくいかない。

 Merdeか。

 同じ卑語でもFuckと言われたらびびりそうだから、そっちで正解だ。わざと私でもわかる言葉をつかわれた。彼にはまだ、余裕がある。乗せられたフリをしている。あれだけ煽ってもミズキさんは生の感情をぶつけてこない。底が、見えなかった。

 浅倉くん。

 かかってこない、か。

 なにかを、誰かを、待つのは嫌い。

 もう私は誰も待たない。自分を連れ去る力強いものを待って、夢を見るのはやめる。

 立ち上がって、電気を消した。

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