3月23日 夕刻 90

 その後、八重洲から桜通りを歩いて銀座一丁目をぬけ、途中のイタリアンカフェでラザニアとサラダとグレープフルーツジュースという夕飯をとる。今日は豪勢にひとりで鰻を堪能しようと思っていたのに、あえなくその計画は頓挫した。どうしてこのあたりのお店は八時をまわると閉まるのだ。朝が早いのかなあ。鰻屋さんで飲むの、好きなんだけどなあ。

 子供の頃にはうなぎ嫌いだったのに、いまは好き。老舗の名店に行ったら、好きになった。それ以来もうスーパーの安売り品だって食べられる。不思議だ。

 いったんハードルを越えてしまえば、あとはなし崩し。どうも、そういう法則だか傾向があるような気がする。

 家主のいない家に入るというのも、初めはすごく悪いことをしている気分だ。合鍵を受け取り家で待っててなどと言われると、やたらと断りたくなって困ったことがあるが、いつの間にかできるようになっていた。

 けれども、今日は、そういうわけにはいかない。

 築地の家の前で、凄まじい躊躇を感じて引き返したくなった。

 戸締りをしないとならない。それはいい。

 指輪だ。あれが、あれがなんというか……恐ろしい。敵はまさに、契約をとりむすぶ呪物。あれを受け取るか否かで、自分の人生を決するのだという、象徴――。

 ま、そんな大げさなことはどうでもいいや。いや、よくないが、まずは戸締りだ。

 門扉をあけて玄関の鍵をひねり、ガラガラと音を立てる引き戸をひらいたところで、電話が鳴った。身体は否応なく反応しあわてて靴を脱ぎそうになるが、落ち着け。ひとさまの家だ。内側から鍵をおろし廊下のつきあたりの電話に背をむけたまま、いやな予感に身震いした。この家のは、留守電に切り替わるんだった。盗み聞きになるという躊躇と、わざとじゃないという思いが交錯したまま目を閉じた。

「ナオキさん、なんど電話したと思ってるの。ちゃんと連絡なさい。いつまでそこにいるつもり? いい加減にして。桂の家から催促がきてるのに何をしてるの。そこがどうしても気に入ってるなら向こうの言う通りマンションにして住めばいいでしょう」

 そこで、ふうっという吐息が聞こえた。それから、あした必ず電話をしなさいと事務的に告げて、切れた。

 これってきっと、お母さん、だろうな。お姉さんじゃない。言い切りの、さいごの命令口調と、さん、という微妙な抑揚のもつもったいぶった感じがミズキさんに似ていた。おかしなことに、そう感じた。

 やっぱり、聞くんじゃなかった。聞いてしまってからそう考えるのは、遅すぎる。

 ブーツを揃えて家にあがり、カバンは居間におろした。すこし風を通そうと各部屋の窓を開けてから、ジャケットを脱いでいいかげんにソファの背にかける。

 ナオキ、というのはどういう字をかくんだろう。本人からでなく、彼のホントウの名前を聞いてしまったのは残念な気がした。

 指輪は八畳間の鏡台、その二番目の引き出しにお絵描き帳の紙で包み、封蝋で閉じたいほどの想いでしまっておいた。膝をついてそれを取り出し、持ったままうなだれる。

 重い。かるいものを重くもちなさい、と所作を注意されなくても、これなら重々しくもてそうに、オモイ。

 元の場所にしまい、電話では気後れで、メールを打とうとしてうなだれた。画面に表示された時間は九時十七分。ダメもとで、かけてみるか。連絡しないでと言ったひとの顔を思い浮かべようとする自分を叱咤した。

「姫香ちゃん、今もしかして築地にいる?」

 呼び出し音がほぼ聞こえないまま、出られてしまった。ウソをついてもしょうがない。うん、とこたえると相手はため息のような間をとった。

「じゃあ、聞いちゃったね。母からそっちにも留守電入ってるでしょ」

「……ごめんなさい」

「いや、いいよ。僕がはっきり言わなかったせいだから」

 私は上の空でそれを聞いた。気になるのは、いいから、というのがそういう意味も含んでいると察することのできなかった自分の失態だ。お母さんから何度も彼のケータイにかかってきているのだろう。

「このお家、取り壊してビル、建てることになるの?」

 質問に、ミズキさんは力なく笑った。

「どうだろう。権利は父のものだけど、あのひと、そういうのが苦手で逃げ回ってるんだよね。僕もそこに愛着があるし、といっても家中あちこちガタがきてるから建てなおさないといけないのは間違いない」

 私は立ち上がって、かつては水屋だったはずの、今は物入れになってしまった部屋の入り口を振り返る。たしかにたてつけが悪いので扉が閉めづらくて困ったばかりだ。

「それなのに、ここに住めって何度もすすめたのはなんで」

 相手が語りだそうとする前に、きいた。

「今、電話しててもだいじょうぶなの?」

 彼はやや自嘲気味にこたえる。

「だいじょうぶどころか、今は事務所でひとりっきり。この後も、挨拶がわりにクラブに顔出すかなっていうくらいで特に至急の仕事はなし。それも、ひとりでそこにいられないから無理やり入れた予定だし」

「ミズキさん、どうしてひとりじゃいられないの?」

 まずは指輪の、つづいて家の話をしようと思っていたのに、どんどん話題が遠ざかる。

「こわいから」

 それは私の聞きたいこたえではない。なにゆえに怖くてひとりでいられなくなったのか訊きたいのだけど、彼はわかっていて、こたえない。どうしてこわいのと尋ねたら、ひとりだからと返されそうだ。

「今、事務所はひとりなんでしょ?」

「仕事場は平気。やることがある。僕、昼も夜も働いてると気持ちが楽なんだよね」

 このワーカホリックめ、ひとりで日本のGDPあげるつもりですか。

 前にきいた彼の予定は社長業らしく、ほんとに営業だ。リリースイベント、ファッションブランドのデフィレ、中国人書道家のオープニングパーティなんてのもあった。あのルックスだから似合いそうなのに、ふだんから尖った服装をしないのは、どんな場所でも目立ちすぎないようにとの配慮だと知った。

「空白の時間があると、余計なこと考えて心臓がバクバクいって眠れなくなる。昔はよくそのまま車飛ばしてたんだけど、さすがに浅倉に叱られて、自分の車は売ったんだよ」

「寝ないでクルマ乗るって危なくない?」

「うん、もうしない。でも、君もけっこうあぶないタイプだよ?」

 子供のときの無茶をいっているのだと思ってむくれそうになった。

「私はこわがりだもん。臆病すぎて自分でいやになるくらい」

「だから僕、姫香ちゃんがいてくれると助かるんだよね。君が、それはやりすぎっていう顔をしてくれると、なんか納得できる」

 祖母に似てるからかな、とつけたされた。その言葉だけはぎこちなかったけれど、今までのところ、彼はよく平静をたもっている。

「ミズキさんにとって、私ってなに?」

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