3月23日 夕刻 89

 八時をまわって、今日の売り上げは二万円。赤絵の染付け皿一点。白髪交じりの上品なご婦人のお買い上げだった。報告のために浅倉くんに電話を入れると、ドライブモード。留守電が苦手なのであわてて切って、メールに切り替える。売り上げとお客様の人数や荷物の数など気がついたことを思いつく限り入力して、さて、あとは何を伝えればいいのか考えた。いったん保存して、看板をあげることにした。

 相手が会社のひとなら、はじめと終わりは定型句だ。友達でも、まあ、だいたいのところは状況で決まっている。読み返すとむちゃくちゃ仕事モード全開で、これではよそよそしすぎるような気がしてまた送信を保留した。

 掃除は帰り際にお願いしますとメールで指示がきていた。隣がオフィスなので昼間に掃除機をかけるわけにはいかないらしい。今どき見かけない由緒正しい真正のハタキをうきうき勿体ぶってかけたあと、この長い柄の箒がうれしくてちょっとだけ掃いてみた。目に見えてごみが集まるわけでなく、やっぱり掃除機が正解だと感じてすこし落胆する。髪の毛くらい落ちていそうなものなのに、濃い木目では見えなかった。なんだか甲斐がなくて掃除機をひっぱりだす。とたんにつまらないような気がする自分に呆れながら、火鉢や臼の転がるスペースに掃除機をかける。

 もう終わるというところで携帯電話が鳴った。浅倉くんだとわかった。すこしくらい待たせてもいいときっちり角までかけて、掃除機をとめて鳴り続ける電話を片手でつかむ。

「すみません。運転してて。特に何もなかったっすよね」

 私はつまみを押しながら、灰色のコードがしゅるると掃除機におさまる様を一呼吸おいて味わい、メールでうった内容を口頭でつたえた。その間にバックヤードの定位置にそれを片付け、窓を閉め、電話をファックスにきりかえ、パソコンやプリンタの電源を確認する。歩きながらしゃべっているのがわかるのか、浅倉くんが、よかったら冷蔵庫にビールあるんで、と笑った。言われるままに開けると、ごろごろと一ダースくらい転がっている。

「毎日、飲んでるの?」

「や、いちお、休肝日はあるんすよ」

 笑ってから、ふいにあの可愛らしいOLさんのことが頭をよぎった。いちおうメールに彼女が来たことは書いたけど、詳しいことは電話で話したほうがいいだろう。

「あのね、あとでメール送るけど、一点、アロマキャンドルお取り置きしてパソコン横にメモして除けておいたから。制服きた二十代半ばくらいのOLさん、買うかどうかわからないって断られたんだけど、よく来られてるみたいで」

「ああ、マリちゃんか」

「お客様にチャン付けなの?」

 すかさず彼が苦笑して言い訳した。

「次の店長候補と仲良しなんすよ。よく二人で遊びにきて品物チェックしてくし、たぶん彼女と一緒に雑貨の仕入れやりたいんでしょうね」

 なるほど、友達というのはその次期店長さんのことか。でも私の見たところ、それだけじゃなさそうだったよなあ。とはいえ変なこと聞かれたのは黙っときたい。というかどう言えばいいんだ。お客様が不在を気にかけておいでだったとは伝えたほうがいい。けどな、浅倉くんて男のくせにことばの裏を読むからこういうとき困る。それとも、もうこれだけで彼女の意図は通じただろうか。

「センパイ?」

 口を開こうとした瞬間、悟志、と呼ぶ声がした。大志くんだとすぐわかる。いま行くからちょっと待ってって言っといて、と追い払う口調の浅倉くん。一瞬の間のあと気遣わしげに、早くしろよ、と声がつづいてドキリとした。大人のぞんざいさに慣れきって忘れていた。子供というのは本当によく、なんでも気がつくのだ。しかもいちばん大事なところだけまっすぐに気をつかう。ひき比べて、ちょっとしたやりとりに過敏になるだけの自分がひどく情けなくなった。

「あ、すんません。親戚、車で送ってるんで。また、オレからかけます」

「う、ん……気をつけて」

 電話を切ろうとすると、いま、なにか言いかけませんでしたか、ときかれた。

「親戚のかた、待ってるんでしょ」

「や、でも、その」

 気づまりな声。私は冷蔵庫を開けて冷えたアルミ缶を右手につかんだ。その手で扉をしめながら、片手であけるのが難しいと気づいて肩をすくめて訊いてみた。

「浅倉くん、大人になるってどういうことだと思う?」

「ちょっとくらいの理不尽なことは受け入れられるってことじゃないっすか? 堪えられるっつうか、許せるっつうか」

 瞬時にこたえが返ってくるとは思わなかった。何それって言われるにちがいないと踏んでいて、きいた私がつるりと缶を落としそこなった。

「あれ、センパイ?」

「ん、そうか。ありがとね。じゃあ、また」

 切ろうとすると、なんかあったんすか、とすかさず問う。

「べつにないよ」

「別にって、すげーあやしいんすけど」

「大志くんの声きいたらびっくりしただけ。その年でもうすごくオトナなんだなあって」

 むこうがしずかになった。首をかしげ、そのまま電話を肩のあいだにはさむ。缶の蓋を開けるには両手がいる。開けたところで、右に電話をもちかえた。

「自分のこと、子供だって思ってる?」

 あらためてきかれると情けなくなった。この年になってそんなことを悩んでしまうというのは幾らなんでも、みっともないのではないか。そういう思いが、唇で震えた。そこへ、いつになく生真面目な調子で彼がいった。

「大人だよ。少なくとも、オレよりは立派に大人」

「ウソ」

「うそじゃなくて。もし自分でそう思えないんだとしたら、それ」

 あ、と声が遠くなった。ご親戚の登場か。彼は早口に謝罪して、またかけます、という言葉で切った。私は右耳に携帯電話を押しつけたまま、ようやく缶ビールに口をつけた。

 苦かった。黒ビールじゃん。ラベルをかかげ、大人の味だな、と独り言をのべて微笑む。

 少なくとも、十代のうちはこれの何が美味しいのかわからなかったな。

 残りをゴクゴクと干しあげて、さっき書いたメールをそのままエイと送信した。お仕事モード全開で悪くない。シゴトだもん。

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