3月23日 夕刻 88

それはお馴染みの、お別れのときの質問だった。本当になりたいもの、いちばんイヤだったことを聞かれた。今度は。

「なに」

「姫香にとって『大人になる』って、どういうこと?」 

 私は肩で息をした。目を閉じて、ゆっくりと、自分がもっとも美しいと思うものを瞼にうつしだしながら、こたえた。

「ここを、この世界をまるのまま愛してるって思えること。ここはこんなに青くて美しいところだっていうのに、この世界は自分の願うとおりの形をしてなくて、あの見た目通りのところじゃなくて、それでもここにいたいって思えることが、ここをそれでも愛してるって思うことが、それが、そういうのが『大人になる』だったら、どんなにいいかと思ってる。この世界を変えたいという気持ちはあるけれど、恨むんじゃなくて憎むんじゃなくて、そうじゃないやり方で、できたらいいと思う」

 聞き終えた獏が吐息のように私の名前を呼んで、やわらかな声でつづけた。

「どうも、ありがとう」

「こちらこそ。獏、わざわざ知らせてくれてありがとう。声が聞けてうれしい」

「うん、うん」

 涙声でうなずかれて、私も泣きたくなった。でも獏はやっぱり獏で、なんだか高飛車なようすで告げた。

「あ、もう時間だわ。あたしが推薦したんだから、もしもお迎えがきたらちゃんとグズグズしないで行くのよ。貴女、けっこう往生際が悪いから」

「わかったわよ。獏に恥をかかせないように潔くするから、心配しないで」

「心配よ。ものすご~く心配よ」

 それが、私の無様な態度のことだけではないと気がついて唇を噛む。すると相手も、こちらの緊張をさとって聞こえよがしのため息をついた。それから。

「うそよ。心配してないわ。貴女はちゃんとやると信じたいから」

「そんなこと言わないで。私、ほんとは全然」

「頼りないのは知ってるわ。あたしは、貴女を安心させたりしないようにしようと思っているの。強いと驕り高ぶって自惚れに足をすくわれるより、不安でこわがって逃げまわって生き残りなさいって思ってしまうのよ。でもね、頼りないって自分で思えるのは大事なこと。それで頼りないままでもいたくないって思えれば最強よ」

「獏、いってることが、矛盾してる……」

「矛盾しててもいいじゃない。そんなどっちか片方なんてかっこつけしいでマガイモノっぽいもの。あぁ、もう、すぐ時間がたっちゃう。とにかくね、姫香、あたしは」

 何かものすごく大事なことを言う予感に身構えしたところで――

 ガチャン。

 うそ。切れた。

 信じられないことに、受話器からは耳慣れた、つーつー、という断絶音しか聞こえてこない。

 うそ、ウソでしょ?

 またすぐかかってくるかと思って受話器をおいたのに、それはうんともすんともいわない。ナンバーディスプレー? そんなの、ないもの。あったとしても、かかるとは思わなかった。

「ウソ、でしょ……?」

 独り言を口にして、椅子から立ち上がる。じっと、じいっと穴が開くほど電話を見つめても、異世界と交信できるようなそぶりはない。まったく、ない。

 両手で髪をかきあげて頭をかかえた。

 こういうときって、ちゃんと、なにかカッコいい決め台詞で終わるものじゃないのかと、そう思っていたのだ。期待をものすごく裏切られて、その滑稽さに思わず声をあげて笑ってしまった。

 獏だ。ほんと、獏だった。

 あああ、あれはきっと、変わりなく元気にちがいない。さっきは心配したけど、だいじょうぶ。

 あの間の悪い、自分の言いたいことだけの、ちょっと高慢な口ぶり。すごく親切で優しいようで、秘密めかしと謎めかしで気を持たせながら、けっきょく煙にまくところも。どっちつかずの気分屋で、私の言うことを途中で切ってさっさと先回りして話し出す癖も。なにもかも、みんな、獏だった。

「……ほんとにもう、自分の用件だけなんだから」

 獏のために、いちからネオ・プラトニズムについて勉強しなおしてるのに。絵をかけっていうから描いてるのに……獏の……ばか。

「獏のバカっていうと、獏だからウマ、シカじゃないって言うのが変で、かわいかったんだよなあ」

 涙がこぼれそうで、あわてて上をむいた。鼻の奥が痛い。だいじょうぶ。泣かない。獏は元気だ。

 獏……アイシテイルヨ。

 声には出さず、言ってみた。

 悪くない。そんなに悪くない。こういう気持ちは悪いものじゃなかった。

 耳に入ろうとした悪戯な涙を指先ですくって舐める。

 塩辛い。

 私のなかには海がある。「母」でもないくせにと思うものの、あの青いものから自分が生まれてきたと想像すると、うっとりする。

 まして、ネオ・プラトニズムの本を読んで、「愛する」と「苦しむ」と「海」がすごく似ている単語だってことをしばらくぶりに思い出した今、そのことを獏に教えてあげたかったとしみじみ思う。文学好きの獏には目新しくもなんともないかもしれないけれど、私は忘れていた。

 ここが、どんなところかようやく思い出した。ここにいる。それ以上のことはない。ないと、信じたい……。

 自分の肉体がなくなったとき、私はこの重力にとどまっているだろうか。そのときにはもしかしたらもう一度、獏に会えるだろうか。そういうことも教えて欲しかったのに……。

 まあ、相手は獏だからな。

 純粋愛を語るにはお互い、だいぶ不純に過ぎたかもしれない。あんなに本の貸し借りをして内容を語り合って、当然ラブストーリーだって山ほどあったのに、自分たちの恋愛話にならなかったのは、お互いそれを意識して微妙に避けていたからだ。

 直感で、獏はひとりものじゃない、とわかっていた。手を出してさわらなかったのは、獏がマレー獏の姿をした幻だと思ったせいだけじゃない。彼女が、なにか奇妙な節度をもって私に相対していたからだ。あんなに馴れ馴れしくて私の心の内側にすっと入ってきながら、最後のさいごに、今みたいに、肝心なことは何も言わない。それは獏らしい気遣いともいえたけれど、そこにあるのは異界のものだからという理由だけではなくて、ある種の引け目があったように感じた。

 そして、そう感じていながら、私は今回も、それを問わなかった。彼女を信じたい。それはもしかすると、相手を自分の幻想のなかに押し込めて恋をしているのかもしれない。

 臆病なのは、けっきょくのところ自分が傷つきたくないって証拠なんだよね。

 私はそう断じると、ぼんやりするのをやめた。

 それから、書類ケースの引き出しを開ける。発送するのはまだでも、送り状くらい書いておいてもばちはあたるまい。それと切手のシートもそのまんまだから、切ってそろえて整理しちゃおうっと。あとはなんだろ。とにかく。

 やれることが終わったら、絵をかこう。

 そのときだけは、なにもかも忘れていられるから。

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