3月23日 午後 85
彼が何か言いかけたのに強引に続けた。
「断り文句じゃなくて。カレシがいたほうがいろいろ都合いいし、ものすごく打算なの。もちろん嫌いじゃないから付き合ってるんだけど、でも、自分から好きになるのはたいてい女のひとなの」
電話の向こうで息をのむ気配にこちらが萎縮したけれど、先を急ぐ。
「私、綺麗な女のひとを見るとぽおってするっていうか、自分から寄っていきたくなるのね。友達になれるとうれしくて、誇らしいような、ちょっと征服欲入ったヨロコビを感じるの。高校のころの渾名はヒカルキミと撃墜王だったから」
「ゲキツイ?」
「そう。気に入った子をはしから口説き落とすのが好きだったの。高校くらいまでは女の子も言葉の気持ちよさだけで擬似恋愛ができるし、女性をほめあげるのはほんとに好きだし得意なの」
ミズキさんの言葉があたまをちらついた。自尊心を満たす、か。男の子にも早々に厭いて、次は女の子。でも、それもやっぱりチガウのだから、始末におえない。
「でも、女のひととそういうことをしたことはない。生まれて初めてキスしてもいいってきかれたのも女の子だったし、大人になってからこっちのベッドに来ないって誘われたこともあるしその他にも色々あるけど、一度もしたことがないの」
もちろん、髪を梳かして編みこんでもらったり襟のリボンを結びなおされたりということが、そういうことに含まれないのだとしたら、の話だ。いま思うと、あれは愛撫とどれほどの差があったのか疑問だ。
女の子を口説きまくっていた一方で、私は親友の響子にかまってもらうのが大好きだった。私たちは教室に入る前に茶道部の部室でまず落ち合った。キモノを着ることがあるせいでそこにはちゃんとした鏡台があって私はその前に座り、膝立ちになった響子がブラッシングしてくれるのを心待ちしていた。姫香の髪って猫っ毛ですごく柔らかいよね、そう言って微笑む鏡のなかの響子は、二重の幅が左右ですこし違っていたせいか、毎朝みているはずなのに、印象が変わってドキドキした。そうやって目が合うときも楽しかったけれど、それ以上に私を夢中にしたのは、首を傾けて伏せ目がちになった響子が自分の髪を熱心に梳かしている姿を見ることだった。それはまるでレオナルドの描く聖母や聖アンナの相貌を見るようで、その姿を独り占めしているのがうれしくて、きゅうっと鎖骨から喉のあたりが切なくなった。
響子は自分はショートカットなくせに、いつも凝ったやり方で私の髪を結んでくれた。私はあの頃、何十本もリボンを持っていたように思う。自分で買ったのではなくて、響子をはじめ他の女の子たちからの贈り物だ。
私もそれ相応にプレゼント攻勢していた。贈り物では本気のBFには敵わないと知っていたから、こまめにカードを渡した気がする。すこし背伸びしすぎたくらいの洋物に、その子がひそかに努力していることや自身で気に入っているところを、まるで手写本のような壮麗さとそっけなさの両方で綴って贈った。
女の子たちに、深町ッチャンが男なら、あたし絶対いまの彼よりあなたを選ぶ、とよく真剣に言われた。そりゃそうだ。イイトコしか見せてないんだから。大人になってからは憐憫された。姫香って女だから不幸なんじゃないの。そこらの男より「いいオトコ」だもんね、見る目きびしくなるよ。
「なんでそれで、その、実際は……」
浅倉くんが言いよどむのが笑えた。自分から言う側ではどんなことでも言えるくせに。
「高校の頃、たまに本気で返されると腰が引けたのは、男の子とさえまだ最後までしてなかったからだと思う。大人になって誘われてこたえなかったのは、ふられたばっかりで気持ちも荒んでたし、彼女と同じように気持ちよければそれでいいって思えなかったせい」
「それ、マジで口説かれてたんじゃないの?」
「違うよ。そういう言い方じゃなかったもん」
「や、だからその、ある程度、自分も相手も傷つかないように予防線はっとくっていうか、ダメもと、みたいな」
「それはわかるけど。部署の違うひとで、ふたりだけで飲んだのそのとき初めてで……」
合コンに参加して一次会で抜けた。好きな映画の趣味が合って、ビデオ見る、と家に誘われたのに、見たのは彼女の借りた返却期限の迫ったハリウッド映画だ。がっかりしたけど、しょうがない。そのうちなんでかセックスの話になった。それこそ生まれて初めてひとりエッチの話を聞くことになって、女同士でもこういう話しはしないよねって、その流れで声をかけられて……
「や、まあ、オレがここでその人の気持ちを代弁する必要ないんすけどね」
ふう、と浅倉くんが息を吐いた。それから妙にあらたまった調子で問いただされた。
「ほんとに自分から男を好きになったことないの?」
「ないって言ってるじゃない」
「うそつき」
「浅倉くん?」
彼が乾いた笑い声をたててから続けた。
「んなの、聞いてもしょうがないね。ま、いいや。オレ、今ならそいつに負けない自信あるしどうせ過去のことだし。ほんと、あんたが臆病でよかったよ。そばにいる奴のほうが絶対強いんだよね。とくにあんたみたいな人はさ」
うそつきと罵られ勝手に解説されて苛立ちが募ったくせに、なぜだか言葉が出てこない。いま何か言うと、絶対に言い負かされるような気がした。口じゃ負けないはずだったのに、敗北の予感にケイタイを握りしめていると、調子を変えて尋ねられた。
「で、センパイ、いま誰か好きな女の人がいるの?」
獏のことが胸をよぎったけれど、またもや口にすることができなかった。すると、彼はいつもの声で突っぱねた。
「もしいても、オレにはそれ、関係ないけど」
「関係ないの?」
「ないだろ。人妻でも子持ちでもオレ、もう絶対にあきらめられないし」
「あ、さくら君?」
「そうやって言い訳されればされるほど、オレ、すげー頭くんだよ」
「言い訳じゃなくて」
「言い訳だよ。ああもう、オレだって自分でバカだと思うんだよ。なんでオレ、こんな甲斐のない、人の気持ちのわかんないヤナ女じゃなきゃダメなんだろって、築地の交差点でふられたあともずっと考えて、もうやめようって思ってると、なんかすごく当たり前みたいにオレのこと助けてくれて、それで恩を着せるわけでもなくて、もちろんオレのこと好きなわけでもなくて、なんだそれって、そんなのおかしいっつうかずるいっつうか、もうオレ、あんたには絶対かなわないって思うと苦しくて落ち着かなくて、あの後もイマイチ踏み込めなかったのは、電話してもあんたがすごく迷惑そうに話すし、そんなに好きでもなさそうな男と結婚するのになんの疑問ももたないっつうか、この人これで幸せって思うくらい何にもわかってないんだからオレももう無視して忘れようって思ったりして、それにミズキとならあんた幸せそうだって思いかけたけど、あんた泣かされてるし、いざとられるかと思ったら我慢できなくて、もうしょうがないってとこまできちゃったんだよ」
いろいろ思うことは多々あったものの、なんだかすごく間違っていると感じていた。まして、バクになってしまった彼のために奔走したのは、きっと。
「私、あのときもべつに自分のためにやったことだし」
「知ってるよ。だから腹が立つっていうか、オレはもう、あんたに存在で負けてるっていう気がして耐えらんないんだよ」
ずいぶんかたい言葉が飛び出してきて困っていると、深いため息が聞こえた。
「もうこれ、どうしようもないだろ……」
どうしようもなさかげんは充分に伝わったけど、でもじゃあ。
「それで浅倉くん、私を意のままにできれば気持ちが落ち着くの? 負けこんでる気持ちがやわらぐ?」
一瞬、戸惑うように吐息が流れた。
「正直にこたえなよ」
軽くうながすと、ふっと弱い笑いがおきてから一言、わかんねーよ、とこたえた。
雑駁な、ひどく投げやりな声だった。
それでいてなぜだか自然に、そうだろうな、と認めていた。ここまで言うんだから、そしたら救われるとでも泣いて口にしておねだりすればいいのに、さいごの最後にそう言わないのだ。すこしは絆されてあげてもいいかなどとそれこそ勝者の余裕で驕っていると、肩透かしをくらう。
浅倉くんだなあ、と思う。
「センパイ、そこでなんで笑うの」
拗ねたような、恨むようないじけた口調がおかしくて遠慮なく喉をふるわせていると、むこうが呆れ声で評した。
「オレがつけあがらせてるんだろうけど、ほんっとに余裕こいてるね」
そう受け取れるのなら、それでいい。
でも、ほんとうはそうじゃないことを、私は知っている。
たぶん、私は浅倉くんが好きなのだろう。
でも、ミズキさんのことを思うと、どうしてもそうすなおに感じられない。
利己的になれないくらいの想いなら、そう大したものじゃないはずだ。ミズキさんのほうがほっておけないと、彼をひとりにしてはいけないと、そう考える私はだから、浅倉くんにこたえるわけにはいかないのだ。
それをどう伝えようと考えて、いや、伝えないようにどう言えばいいのか考えて、それがあまりにも無謀で、難解な大事業のように感じてついた吐息のあと、
「オレ、帰ったらデートしたいんだけど」
妙にはりきった声で、彼が語りだした。
「よくよく考えると飲み屋以外、大学のそばのサ店かカラオケかスーパー、あとはファミレスか、そういうとこしかセンパイと二人だけで行ったことないよね。映画とかライヴとか、あ、美術館? なんか、ダ・ヴィンチの何とかっていう絵が来てるんすよね」
《受胎告知》と反射的にこたえてしまった。いかんいかん。
「そうそう、それ。ポスター貼ってあった。あれ、行こうよ。前みたいにいろいろ聞かせてほしいんすけど」
「浅倉くん、私」
そのとき、仕切りの奥で電話が鳴った。あ、と声をあげると、電話、と問われた。
「あ、じゃあまたこっちからかけますから。すんません。よろしくお願いします」
「あ、はい。がんばります」
ぺこり、とお辞儀をしながら立ち上がり、携帯電話を閉じて奥へと小走りにすすむ。受話器をもちあげて、お待たせいたしました、時任洞でございます、とこたえると、懐かしい、鈴を転がすような笑い声が耳に届いた。
「はい、姫香。おひさしぶり~」
この店の前の店主、時任獏だった。
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