3月23日 夕刻 86
「ウソ……」
「うそじゃないわよん」
あの高い、独特の声が頭蓋骨に響きわたる。
「い、いま何処にいるの!」
「そう慌てないの。どうせ貴女と同じ世界にはいないから」
あっさりと言い切られて、私は椅子に崩れ落ちた。ガツンと音がして、足首を椅子に打ちつけた。痛みに呻いていると、呆れ半分で心配そうな声が問うてきた。
「ぶつけたの? おっとりしてるかと思うとそそっかしいのよね。気をつけてよねえ」
「うん。あの……」
気持ちを打ち明けあった後、はなればなれになったことを思い出すと、異様に恥ずかしかった。それなのに、どうしてか鼻が痛いばっかりで、次の言葉がでてこない。
「貴女もしかして、泣いてるの?」
うろんげな、頓狂な声できかれた。
「だって……もう二度とこんな……」
「あたしもそのつもりでいたんだけどぉ、ちょっと事情が変わっちゃって。姫香、いろいろ話したいことがあるんだけど、この回線高額なの」
「お金かかるの?」
「あたりまえよ~。金銭じゃないけど代価は支払うシステムなのよ。それでね、さっそく用件を言うわね。貴女、まだよその世界に行きたいって思ってる?」
「え、あなたのところに行けるの?」
「そうじゃないの。それならこんな電話しないってば。困ったことになってるひとたちから相談を受けたの。まあいわゆる選ばれし者の冒険よね。リストアップ名簿を見たら、貴女の名前があるから気になって」
「どういうこと?」
「知ってると思うけど、こういうことはいつだって詳しくは言えないものなのよ。それでも、行く気ある?」
よその世界に行く……。
それは文字通り、子供の頃からの夢だった。お話のなかの主人公のように、どこか違うところに旅立つ。そこは異世界で、毎日が冒険なところ。夢見がちな私は小さなころから古い衣装箪笥は必ず開けてみたし、赤い火星を見あげて風に吹かれたりした。
「姫香、もう、行かないでもよくなった?」
私は、獏が違う世界に行ってしまうとき、連れて行ってくれとあんなに泣いて困らせた。聞き分けのないと叱られた。いつまでも何処かに行けると思ってちゃダメよ、大人になりなさいと、散々いわれたのだ。なのに。
「どうして……今、なの?」
「そういうものよ。自分が準備万端でいつでも行ける用意のあるときにお迎えがくるわけじゃないの」
「私、行きたいけど……それって生きて帰ってくる保障はないでしょ?」
獏が可愛らしい肯定のため息でこたえた。
「まあたいていそういう相場よね。自分のいる世界を離れて何処かへ行くっていうのは『死』と同義語だもの」
獏はそこで間をおいた。それからこちらの逡巡を見透かすように、いつもの声で、まるで今日の夜ご飯を一緒に食べていくかいかないかっていうレベルのはなしのように問う。
「どうする、やめる?」
「あ……」
やめると言われると惜しい気がして未練がましく声がもれた。
私は、いつでも誰かに、何かに、選ばれたかった。
それはきっと、なんの才能もなく他人より特に秀でたところがあるわけじゃなくてつまらない自分、どうしようもない自分を、なにか特別なもの、掛け替えのないもの、そうした「何か」にしてくれるものだった。
子供の頃は男の子に選ばれればそれでいいのかと信じていた。その期待はすごく早いうちに裏切られる。ぜんぜん、満たされない。ちっとも安心できない。家でも学校でも会社でも、いい子でいれば居場所はあった。なのに、やっぱりなんでか落ち着かなかい。これをしないと、あれができないと、要求にこたえることができた間はいい。じゃあ、できなかったらどうなるんだろう。邪魔者になるのか、いらないって言われるのか。
捨て子や不幸な生い立ちの主人公のお話を読んでは、かえって切なくなった。どうしてだろう。たくさん、なんでもあるのに。
私はなんでももっている。家族も友達もいて、仕事もあって、カレシだっていて、でもなんで、私はここじゃないところに行きたいと思っているんだろう。幸せだと、そう思っているはずなのにどうしてか、虚ろだった。
本当は……。
私は知っている。よその世界に行きたいと願うのは、本当はここで幸せだと思っていないからだ。ここがいいと、ここにいたいと、私はホントウには思っていない。
「そのひとたち、困ってるの?」
私の問いに、獏がかすかに笑った。
「究極的にいうと、困っているのは『みんな』なのよ。貴女はけっこういい数値出してるみたいだから行ってもらったほうがいいのかもしれない。でも、断トツのトップっていうわけでもないの。まあいわゆるそこそこ? 貴女の代わりにも人はいるっていうレベルね」
「それ……なんか残酷ね」
一瞬にして、醒めた。綺麗なお姫様に手を組み合わせて、あなただけが頼りなのです、そう言われないのはあちらの世界でも一緒なのかといじけて涙が出そうになった。なのに、獏はかわらないそっけなさで応答した。
「そういうものじゃない? 選ばれし者だけで世の中救われてるわけじゃないのが現実だもの。だからこそ、遣り甲斐はあるとも思うのよ」
「獏、私に行ってもらいたいの、それとも行ってほしくないの、どっち?」
「そうねえ~」
ふふふ、というあの絵にかいたように愛らしい微笑が耳をくすぐった。
「あたしの言うこときく?」
「あなたの頼みなら、きいてもいい気がするけど……」
「自分で、決めて」
「獏?」
「あたしに判断を委ねるんじゃなくて、自分で悩んで決めて。今」
「イマ~?」
裏返った声に、情け容赦ない現実的な叱責がおちた。
「だって、この電話すっごく高くつくんだもの。ささっと決めなさいよ」
ささっとって。
ささっとって、それ、なんですか。私の人生の重大事だというのに!
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