3月23日 午後 82
「ミズキじゃダメなの。オレ、あいつの言うこと仕事なら聞けるけど、それだけじゃダメなんだって。百年は生きないでしょ? あとたった数十年じゃん。いいじゃんか、それくらいしてくれたって」
いい大人だというのに駄々をこねている。しょうもないと呆れきっていると。
「オレ、あんたのそのちっちゃい頤で振り回してほしいの。そんでもってその頤つかんでめちゃくちゃキスしたいの、わかる?」
「な……」
「もう言っちゃうとそれだけ。っつうかその先もあるけど、言うと怒るでしょ?」
「アサクラ君!」
「ああ、そうそうソレ。センパイ喉細くてそういうちょっと高めの声で上擦った感じで名前呼ばれると、すげ~クるっていうか、気持ちいいんだよね」
ぎゃあ、もう、誰かどうにかして!
「ってことをね、オレ、あの年の五月の終わりくらいになんかの弾みで来須に喋ったことがあって、すぐに危険人物指定されて、やっぱ、なんかの話の流れで来須と龍村さんにさっきの話をばらしちゃったから。はは、来須にばい菌みたいに追い払われてたの、そのせいっす。あのころオレ、センパイのこと凄い好きっていう自覚まだなくって、なんつうか優等生なお嬢さんで、きっとなんも世の中のこと知らないんだろうなあって実はちょっとバカにしてて。いやあ、マジで失敗したなあって」
私が無言でいると、ものすごく慌てて。
「あ、その、バカにしてたのはほんとにほんとの、最初だけっすよ」
なんだか違うところでひっかかって謝った。
そうか。つまりは私だけ、ソレを知らなかったってことなんだよね。
「センパイ?」
「怒ってないよ。自分に呆れてたの」
「なんで」
「なんでって、だってみんな、あとからこっそり、あのとき実はああだったって、終わってから、自分のなかで整理がついてから言うんだもん。龍村くんの片想いも来須ちゃんが辛かったことも、全部、そのとき言ってよ。私、そんなに役立たずで信頼なかったかな。そりゃ龍村くんみたいに賢くないけど」
「すごく、頼りにしてましたよ」
こういうときだけ誠実そうな声でしゃべるのだ。許せん。そう思うのに、浅倉くんはいつもの調子で続けた。
「じゃなきゃ後から言わないって。黙っとけばいいんだもん。わざわざ自分の辛かったこと喋るのは、聞いてほしいからじゃん。問題を解決してほしかったんじゃないんだよ。ただ、知ってもらいたかったから」
「どうして。あとから言われてもなんにもできないんだよ? どうしてどうもできないのに私に話してくるのかわからないし、キリスト者の告解だって言われればなんとなくわかるけど、でも……」
「そっか。センパイ、聞いてもらうだけで楽になるって思えないんだね」
ため息のように語尾がうすれた。
カムアウトされるたびに、私は相手をちゃんと受け入れることができているかどうか考える。もちろん人間というのは恐ろしく鋭敏な生き物で、話そうと考えた時点で自分を受け入れてくれるものと察し、期待しているはずで、明らかに拒絶されそうな相手には自分の弱みを晒したりしないものだ。
私はこれまで生きてきてそれぞれ一度しか、不倫と二股の相談を受けたことがない。どちらも潮時で、やめると決断するための申し入れだった。自分では鷹揚なほうだと思っていたくせに、実はその手のことに不寛容なのだと気づかされた。
浅倉くんがゆっくりと、言い聞かせる調子で話した。
「そんなにその、世の中みんな、自立してないんですよ。エゴや弱さと折り合うのにいろんなやり方があって、そのために宗教みたいなものにすがる人もいるけど大抵はそこまで追い求められないから、とりあえず、近くにいる人に自分がそんなに間違ってないってそのときだけでも慰めてもらいたいっていうか、許してもらいたいっていうか……」
「ほんというと私、それが、わからない。ひとがそう望んでるっていうことはわかるけど、ううん、自分だってきっとほんとはそうしたいと思ってるんだろうけど、でも、そうしちゃうのってなんだか、抵抗がある……」
ふう、と息をつかれていた。その吐息は、なんだか私のほうが聞き分けのないことを言っていると自覚させられそうで焦った。それが苛立ちに変わる前に、彼が言った。
「うん。でも、それでいいよ。っつうかそれが、もしかするとオレはむちゃくちゃ憎らしくて、奪い取ってやりたいっていうか、どこにそれがあるのか知りたいし、突き崩したいのにできなくて、その……」
撫でられていると感じた。耳に触れる声は、ありもしない、見えもしない私自身の真ん中を、たしかになぞろうとして、震えていた。
「ねえ、オレがなんでこんなこと言うか、センパイきっと、ほんとはわかってないね」
いや、たぶんちゃんとわかってるよ。
そうこたえると、山ほど恨み言をいわれそうなので黙っていた。ウソはつかないけど、言いたくないことは言わない。
「あのさ、ほんとは昨日話さないといけなかったんだけど、龍村さんからあんたに伝言あるんすよ」
「龍村くん? え、なに」
正直、私はすこし用心した。その緊張に気づいた浅倉くんは掠れ声で笑った。
「さいきん妹さんから付き合ってるひといないのかってまた訊かれたそうなんすよ」
それで、と先をうながすのを躊躇った。電話のむこうで、小さな息継ぎの気配があった。なんか絶対、予想もしないことをいわれそうな気がして身構えると。
「んで、その、なにが問題かっつうと、妹さんと龍村さん、血、つながってるかもしんないんすよ」
私が驚かなかったことで、浅倉くんが何故だか笑ったような気がした。気のせいかもしれないけど。
「……龍村くんの親御さん、再婚同士だよね?」
「おやじさん、浮気してたみたいなんすよ。それはなにげに本人に確認したらしくて、あとはおかあさんのほうに聞くしかないけど、本人だってわからないことかもしれないだろうし、どっちにしろ確率は半々ってとこだろうなって。龍村さん、自分からは言わないって決めてたけど、彼女から言われたらブラックボックスを開けるしかないって……妹さんは血がつながってないって思ってるだろうし」
「それ……ほんとに私、聞いてしまって、いいの?」
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