3月23日 午後 79
私は背筋をのばし、相手が何を言おうとするのか聞き遂げようとしたのに。
「なんであんた、他人のことだけそんなに鋭いのってマジで腹立ったりしたけど、オレの姉貴もそう。オレ、あの人にも一生頭あがんない。あんたは性根がなってないっていっつも言われてた」
そんなことないよ。そう返して安心させてあげるところじゃないんだろうな、まだ。
「オレ一年、留学してるよね。あれ、勉強とか何とかじゃなくて、ヤバイことになって逃げたようなもんなんだよ。とにかく日本出て頭冷やせって姉貴にすすめられて」
あんまり黙っていられても困るかと、それで、と促してみた。
「山岸さんて覚えてる? 同好会役員の副会長の」
またもや話が飛んだような気がして、え、と聞き返した。
「覚えてないか。そうだよな。一回うちで飲んだだけで、暴力男と付き合ってるって……ほら、岡部さんが不倫してて、次の日の昼、カフェテリアでどっちが質悪いかって龍村さんと三人で話したの、覚えてない?」
「岡部さんは覚えてる。龍村くんの友達だよね。でも、その話も山岸さんもちょっと……」
ふっと、力の抜けたような笑いの次に尋ねられた。
「どっちが悪いと思う? サイテーって言う?」
「ええと、ごめん。まず誰にとってとか、どういう状況かとか、教えてくれないと」
まっとうなことを答えたつもりだったけれど、浅倉くんはまた先走っていた。
「センパイすごくさらっと、不倫してる岡部さんのほうがマズイみたいに言ったんだよ」
そんなこと言ったかしら、というのが正直な感想だった。どう考えてもDV男のほうが質悪いんじゃないだろうか。
「浅倉くん、不倫してるの?」
「してないよ」
「じゃあ……」
さっき噛まれたことを思い出した。あ、頬もたたかれた。
「あれは、ぺちってしただけじゃん」
ひどく言い訳がましかったけれど、まあ、ぺち、といえば、ぺち、だ。たぶん友達の肩を後ろから、ぽんと叩くくらいの軽さだったのだろう。驚いたけど。
すごく、驚いたけど。
考えながら、暴力男のほうが否定されていないことに気がついた。
「浅倉、くん?」
「……その理由がね、お互い理性的な部分や打算も山ほどあるだろうから、質悪いのは不倫だって言ったんだよね。そのあと、暴力とセックスは似てるからって」
岡部さん、か。申し訳ないけど、私は苦手なタイプだった。同じ仏語学科の一学年下、美人でスタイルがよくて、でも、クラスメイトの龍村くんにノートのコピーを頼む口ぶりの強引さが気になった。それできっと陰口を言ってしまったのかも、反省。
しかも、余計なことも思い出した。彼女の誕生日にクルーザーでパーティーするからって誘われた。何でもないように、酒井先輩も一緒に、とつけたされて、我ながら律儀だと思いながら彼にも話した。
酒井くんは、岡部ってあのケバイ女だよね、不倫してるって噂いかにもって感じ、と肩をあげた。おかしなもので、苦手だと思っていたはずがそう言われるのは嫌な感じがした。彼は私の表情をどう受け止めたのか、ヒメが行きたきゃ行くよとこたえた。けっきょく、彼には船酔いするからと言って、岡部さんには用事があると断った。
ほんとはちょっと、船上パーティーって憧れた。でも、お金持ちのお嬢さん特有の華やかさに気後れした。酒井くんじゃなく、私を誘う巧妙さにも。
そんなことをうだうだ思い出しながらずっと黙っていたせいか、浅倉くんは自嘲気味で口にした。
「オレ、きっと上手に喋れてないね」
「そうでもない」
読めないわけじゃない。ミズキさんと浅倉くんの関係、不倫、または暴力とセックス、頭冷やせと留学で見えてくるのは、彼が高校生のときに誰かと抜き差しならない関係に陥ったという事実だろう。
「浅倉くん、結論から言っちゃえば? 私、ウソつくのも空気読むのも下手だけど、話の筋を追うのはけっこう得意だから。事実だけ並べて途中とちゅう、てきとうに埋めてくよ」
はは、と浅倉くんの力弱い笑い声を聞いた。しばらく沈黙をたもっていると、搾り出すような掠れ声が、耳に触れた。
「オレ、あんたにだけは軽蔑されたくない……」
「じゃあ、ここでやめとけばいいよ」
「センパイ?」
冷たい言い方をしたと思う。でも、ごまかしが通じないのは百も承知だ。
私は根性がない。黙って相手が語りだすまで待つだけの気力がない。これじゃ知りたくないと拒絶したにひとしいと思いながら、でも、話し出していた。
「何があったのか想像できるけど、それは私のあたまのなかだけのことで現実じゃないから。私が浅倉くんの現実よりずっとヒドイことを考えていたのだとしても、私はそれを否定して無視することもできるし忘れることも簡単にできる。でも、いったん口から出てしまった言葉は取り戻せないし、その大きさも強さも、実は些細なことであっても、一定の重みができてしまう」
赦してほしいと言われても、私は神様じゃない。どんな小さな罪でも、それはできない。
聞くことはできる。でも、聞くということはそれだけじゃ終わらない。だって、それを背負ってくれと言われてもできないから。ならば、聞かないほうがいい。それを狭量で子供っぽいと責められればその通り。
「その想像の中でオレ……」
何を心配してるのかは、さすがに察した。
「私はきっと想像力旺盛なほうだろうけど、でも、あれだけ優しくしといて、ここはたくさん点数稼いでるって思っていいところじゃないかな」
「センパイ」
わかりやすいくらい声に力が戻っていて、呆れるというより笑いそうになってしまった。それに安堵して言葉をつぐ。
「私はひとの秘密を暴いたりするの好きじゃないし、嫌がることもしたくない。でも秘密を知ることの優越感や力をふるえることの満足感みたいなものは、自分にもわかる。たまたま力をふるえる立場にいないだけで、もしそうなったらちゃんとできるか不安になる。でも、自分を律したいとはいつも思ってるの」
「……あのさ、前にセンパイ、酒井さんとの関係で、好かれてると思って相手をなめてたんじゃないかって言ったことあったよね。あれ、オレちゃんと言わなかったけど、センパイはそんなことない」
「でも」
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