3月23日 午後 78
「はい」
オーナーはゆっくりと、こちらの目の底をのぞきこむようにして口にした。
「誰に強制されたわけでもなく、自分でしたくて発表するんですから、好きにやるのがいちばんです」
「あの、私、すごく好きにかいてるつもりなんですけど……」
「じゃあ、その好きっていうのを、もっとかいたほうがいいような気がするなあ」
私は次の言葉を失って、ただ、馬鹿みたいに相手の顔を見た。
だって、何をかいても楽しいし、好きにやっていると思っている。それなのに、こんな言い方をされたんじゃ、どうしたらいいかわからない。
「私……」
そのとき、画廊にお客さんが入ってきた。私とオーナーはあわてて棚と小テーブルのうえの絵を集めた。私は接客の邪魔になってはいけないと、挨拶もそこそこに上へと戻った。
情けないことに、涙で階段がぼやけていた。
浅倉くんから電話があったのは、もう夕方遅くになってからだった。その間にお客さんは七人。かと思うと、買い取り依頼なのか、宅急便のお兄さんが二回に分けて荷物を運んできた。ここって税金対策の赤字会社なのかなあ。出入苛表をめくると、右から左に、都内某所のオフィスへと荷物は流れている。
「今、どこ?」
「や、実はもう、家でして」
歯切れが悪く、やたら情けない感じの声で、心配かけてスミマセン、と言った。
ミズキさんが教えてくれたとおり、お姉さん夫婦は軽い怪我ですんだそうだ。いいクルマ乗っといたほうがいいってホントっすね、と彼はしみじみとつぶやいた。
「んな調子だから、甥っ子に土産くらい買ってくるもんだって叱られちゃいましたよ」
甥御さんの年齢をきくと、四月で中学生って何才っすか、と問い返される。それは常識だろうと呆れると、早く出てってよ、という大きな声が耳に飛び込んできた。
タイシおまえ、むこう行って宿題してろ。ないよ、そんなの。ないのか? だ~か~ら~小学校卒業すんだってば、悟志はなんもわかってないのな。
甥っ子に呼び捨てされているのがおかしかった。しばらくお家に帰っていないというわりに仲がいい。なんとなく安心して、子供同士のようなやり取りをひとしきり味わってから、かけなおすと申し出ようとした。
すると浅倉くんが、オレいま大事な人と話してんの、だから頼むからあっち行ってくれ、とお願いした。赤面する私の耳に男の子の返答は聞こえなくて、数秒の間のあと、ふうっという馴染み深いため息がとどいた。
「すんません。オレの部屋、すっかりタイシのもんになってて」
かるく頭をふって、意識をととのえた。タイシ君って大きい志ってかくの、ときくと、そうそれ、と笑いながらこたえた。いい名前だねと言うと、かっこつけすぎて、と口にしたけれど、言葉と違ってものすごくうれしそうに聞こえる。
「浅倉くんにひさしぶりに遊んでもらいたかったんじゃないの?」
「や、そういうんじゃないっすよ。自分のテリトリーに入られて気になるんでしょ」
自室、ということなのだろうか。
「それに大志とはひさしぶりじゃないんで。姉貴に似てやたらデキルんすよ」
前後がどうつながるのか不明ながら、お姉さん大好きなんだなあと微笑ましくなった。意味を聞いたほうがいいか考えつつ、妙な調子でむこうが沈黙しているのに感づいて、とりあえず出方を待とうとしたところで、吠えた。
「ああもうっ」
がりがり頭をかいているようだ。
「オレはおあずけ食らった犬かっての! 今すぐそっち帰りてえっ。そんでもって朝までずっと」
なんだかすごい言葉を続けそうだったので、思わず名前を呼んで口にした。
「その話はまたにしない?」
「なんで」
「とにかく」
「恥ずかしいから、仕事中だから、そうじゃなくて?」
それだけではないと気がつかれて、言い出した私のほうが焦っていた。
「ミズキと話した?」
彼の声は落ち着いていたけれど、私は心臓を鳴らしていた。
「……むこうから、かけてきた、から」
「だよね」
間があいた。何も言い出せなくて、ひとりでうつむいていた。彼の吐息が耳をさらい、愛撫にも似て、肌をざわめかした。
「なんかオレたち、タイミング悪いよね」
こういう言葉は別れ話に聞くことが多い。何もこたえないでいると、さらに声が続けた。
「まあしょうがないか。最初っから、オレが外しまくってるんだから」
「浅倉くん」
何を言うつもりかも決めないで、ただ名前を呼んでしまっていた。
「なに? いいよ。聞くから、言って」
そこまできっぱりと促されると、ほんとうに何も言えなくなる。
「言えない?」
やさしく聞こえた。泣きたくなるほど、優しい声だった。
「オレを悪者にする気がなくなっちゃった?」
うんとも言えず、黙っていた。でもそれで、十分だったかもしれない。
「ま、そりゃそうだよな。センパイって一人にしとくとろくなこと考えないし」
そこでやはりムカッときた。でも、反論できるほどではない。
「あれ、怒らないですか?」
「怒ってるけど」
「遠慮なく怒ってよ。オレ、怒ってるセンパイ好きなんだよね。なんつうか正義感あるっていうか、物事正さないと気がすまないって感じで」
声の雰囲気がふつうに戻っていた。ふつう、というのはきっと、彼が今までずっとかぶってきた仮面のようなものだとは察した。もしもそうじゃない部分を知りたいなどと思うのは、間違っている。
「ねえセンパイ、センパイ何度も、オレがミズキのことどう思ってるか聞いたじゃん?」
「え……う、ん」
話がかわったことに気がついたものの、切り替えができなかった。
「あれさ、オレ内心、すごく焦った」
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