3月23日 午後 77

「こんにちは」

 そのとき、のれんの外側から声が聞こえて、私は飛び上がるようにして膝をおこした。

「はい、いらっしゃいませ」

 声がちょっと、裏返ってかすれてしまった。振り返ると、制服に紺のカーディガンを羽織ったOLさんが立っていた。そのどんぐり眼は、私が泣いていたからではなくて、自分の予想した人物がいなかったせいだと、すぐにわかった。でも目をこすって言った。

「あ、ごめんなさい。鼻声で。花粉症なもので」

「ああこの時季、辛いですよねえ」

 調子をあわせてくれて助かった。

 銀行に行く途中か、帰り道か、彼女が浅倉くんの言っていた、二時過ぎにくるお客だとぴんときた。彼女は後ろ手にピンク色のお使いバッグをもったまま、テーブルのうえのアロマキャンドルをかがんで見ていた。

「いつもの人、今日はお休みですか?」

 横顔のまま、ためすがめつという感じでキャンドルを手にして問われたので、ええ、とだけこたえた。質問の意図を拾えば、彼がいつ出てくるか知りたいのだとはわかったけれど、不確かなことは教えられなかった。

「もしかして、彼女サン?」

 面食らったところで、あ、ごめんなさい、プライベートなことですね、とくるんとカールした睫をはためかせて続けられた。

 素早い。こちらが返答する前に封じられてしまった。助かったけど。この切り替えの速さはひどく物慣れている感じを与えて、頬のふっくらとした愛らしい印象を裏切る。

 ああ。我ながら意地の悪い評価、かな。男のひとだと、どう思うんだろう。謎。

 お客様はこちらの動揺も意に介すようすをちらりとも見せず、それを眺めながらつぶやいた。

「う~ん、どうしよっかなあ」

 お薦めしたほうがいいのか迷った。悩んだならまた来る口実には、なるだろう。そのほうが、いい気がした。

「よろしければ、おとりおきしておきましょうか」

「え、でも……」

「その日の気分でいろいろ迷っちゃうこと、ありますものね」

「そうなんですよ~。なんか、ここで見てよくても家だとそうでもなかったりして。あわてて買って失敗したり。さいしょに見たのが一番いいって友達は言うんだけど、直感で選ぶって難しいですよねえ」

 語尾をのばしながら、彼女はキャンドルをテーブルに置いた。

 ほんとに。キャンドルひとつ選ぶのも難しいのだから、人生の選択なんてものにはどうやって相対すればいいのやら、という気分になった。

 けっきょく、売れてしまったらそれが運命だからと言い残して、お客様は急ぎ足で帰ってしまった。

 運命、ね。

 肩で息をついて天井を仰いでいた。

 ひとまず急いでパンを食べて、三時に下の階に行く前にお化粧でも直すかな。完全フルメークのOLさんを見て、自分の不精を反省するところから始めよう。


 上の時任洞のお留守番をしていることを伝えると、ギャラリーオーナーはオフィスではなく、階段の上り下りの見える会場内で話をしてくれた。たまたま作家さんが外国のひとで、スペースにいないのが幸いだった。

 ミズキさんに絵を見られているときも心臓が痛いような気持ちがしたけれど、相手が本物のギャラリストだと思うと、ものすごく緊張した。やたらと喉が渇いて、出してもらったお茶を一息で半分くらい飲んでしまう。小柄で笑顔が可愛らしいくらいなのに、絵を見つめる視線は鋭い。何もかも見透かされているような気がした。

 オーナーは、十枚ほどの絵を順繰りに眺めてから、う~ん、と眉をひそめて、ちょっと失礼、と数葉の紙を棚のうえに並べた。

「この三枚、自分で見て、どうだろう」

 それぞれ、まるでタイプの違う感じでかいた絵だ。私が突然のことに何も言えないでいると。

「まだ自分自身でやりたいことがわかってない感じですね」

 と、予想もしないことを言われた。

「この絵とこっちの絵は、表現方法が違いますよね?」

「はい。それは主題によってかきわけて」

 私が話している途中で、テーブルのうえから別の紙を取り出して見せた。

「これは、両方混ざってますよね。それはどうして」

「そのほうが、雰囲気が出ると思ったので」

 また、難しい顔をされた。うわあ、なにもかもダメって言われてる気がする。

 ふうむ、という息をつかれていた。次の言葉を聴くのが恐ろしいと思いながら、私は膝のうえで手を組み合わせてじっと相手の顔を見つめる。こちらの視線に気づくこともなく、画廊主は絵に顔を近づけたりはなしたりして、つづいて右左に首をかしげ、目を細めて眉を寄せていた。

 私はあまりの緊張に耐え切れず、問う。

「あの……全部、どれも発表するレベルじゃないですか?」

「うちはレベルっていうのは関係ないんですよ。ただ、そのひとが一生懸命やってればいいんですけどね」

「すごく、一生懸命かいてるんですけど……」

 また、呻かれてしまった。さらに眉間のしわが深くなっていて、思わずほんとうに子供みたいに泣きだしそうな気分になる。でも、そんなことを言われるとは思ってもみなかったのだ。デッサンができていないとか技術が拙劣だとか、そういうことを言われるものと覚悟してきて、なのに、「やりたいことがわかってない」とか「一生懸命やってない」なんて、そんな、技術以前の問題だもの。もう、駄目かもしれない。

 オーナーはふと、完全に萎縮しきった私の様子に気がついたらしく、にっこりと子供のような顔で言い添えた。

「また近いうちに持って来て下さい。九月の予約は入れておきますから」

「よろしいんですか?」

 私が勢い込んで尋ねたのに、オーナーはなんのこともないという風に頷いた。

 もしかして、私があんまりかわいそうだったから、同情されたのかしら? それとも、紹介だからかな。狭い業界みたいだし、そういうこともあるのかも。

 でも、とりあえず、よかった。最悪の事態は回避された。断られたらどうしようと心底こわくなっていた。初めてきたときにはここの作家さんの紹介で、無碍にも断れないっていう雰囲気がありありと見えた。絵は持ってきていたものの商談中で客足が途絶えず、その日は挨拶だけで終わった。予約のための半金を受け取ってもらうまで、正直安心できないと思ったのだ。

 お金を支払い、緊張がとけて肩が落ちた瞬間に、声をかけられた。

「深町さん、やりたいことをやったほうがいいですよ」

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