3月23日 午後 76

 それからどのくらい時間がたったのだろう。

 覚醒と呼ぶにふさわしい響きで携帯電話の音が首の後ろを弾いた。まともな状態ではなかったようだ。ディスプレーを見るそのときまで、浅倉くんが何時にここを出て行ったのか確認するのを失念していた。自分の使えなさに舌打ちする思いで電話に出る。

「姫香ちゃん、今、だいじょぶ? 浅倉から連絡があって」

 ミズキさんの声にうなずくのが、精一杯だった。

「だいじょうぶ? どうしたの」

「ちょっといきなりでびっくりして……」

「命に別状はないし、ほんとに軽い怪我ですんだみたいだよ。もちろん車の事故だから後遺症とかその他色々心配だろうけどね。とにかく、浅倉の家じゃなくてお店のほうに電話して尋ねたら、そう教えてくれた」

「そうなの?」

「うん。浅倉にもその旨きちんとメールしておいた」

 思わず、深いため息をついていた。ミズキさんも、耳元で似たような息を吐いた。本当によかったという想いでもういちど息を吐くと、あんなに慌てて出て行った浅倉くんの姿が思い浮かび、なんともいえない複雑な気持ちがした。 それからミズキさんは息だけで笑ったようで、

「まあ、ここらで一回、顔見せに帰って来いってことだったんじゃないの?」

 それですませることなのだろうか、と誰にともなく問いかけながら、ああ、でも。

「そうかも、ね」

 なんだか知らないけど、そういうこともあるなって、思ったりした。そうしてまたわけのわからないため息がもれたところで尋ねられた。

「今、お店番してくれてるんだよね」

「成り行き上、なんだかね」

 そうこたえながら、自分が俄かに緊張しはじめていることに気がついた。それを遠くに追いやるような気持ちで早口で続けた。

「明日も来たほうがいいなら」

「ありがとう。そうしてもらえると、ものすごく助かる」 

「うん。じゃあ、明日も来るね」

 そこで、不用意な間が落ちそうになって、あわててこちらから言う必要もないことで口を開いた。

「あさっては」

「そこは店長候補のバイトさんだから平気。日曜は休みだし」

「そうなんだ」

 またちょっと、間ができた。電話のむこうでミズキさんの吐息のような笑い声が聞こえた気がした。

「姫香ちゃん、あさって、なにか用事あるの。よその会社受けに行くとか言わないよね?」

 冗談めかして問われた。

「ちがくて。お茶会」

「この時季だと桜の茶会ってやつ?」

「うん、そうなの」

 この上滑りした会話をどうやって終わらせようか考えて、やたら口の中が乾いていた。

「姫香ちゃん」

 耳殻で声がはじけて、ほとんど飛び上がるような気持ちがした。

「ミズキさん、私」

「そんな苦しそうな声で無理に話さなくてもいいよ」

「あ……」

「姫香ちゃん、すごくまるわかりだし。正直だなあ」

 なんてこたえればいいのかわからなかった。ただ、指先が冷たくなるのをひたすらに感じ、ミズキさんの声を聴こうとする。

「浅倉にどんな魔法つかわれちゃったの?」

「魔法っていうわけじゃ……」

「僕の渡した指輪、もってる?」

「私、その」

「やっぱり。家に置いてきちゃったんでしょ。預かってって言ったのに」

 責める声音ではなかったけれど、約束を破った事実には胸が痛んだ。ひとの大切な思い出の品を、しかも恐らくとても高価なものを、無責任に取り扱ってしまったという自覚はあった。

「ごめんなさい、無責任で。ちゃんと手渡しで返すのがほんとだよね」

「そんなに謝らなくもいいよ」

 身の置き所がなかった。小さくなって、謝罪の声をあげるのを我慢した。だって、いま許されたがっているのは、私の、私自身の抱える問題から逃げたがる卑怯さや弱さだから。

 いっそ、強く非難されるほうがいいと思うのに、ミズキさんはいつもとかわりない甘やかなテノールで尋ねてきた。

「どこに置いたの?」

「あの、あのね、ミズキさんは今日、お家にもどらないんだよね。私、雨戸しめながら取ってくる。ごめんなさい。それで迷惑じゃなければお仕事場に返しにいく」

「姫香ちゃん?」

 明らかに、驚いているようだった。

「ほんとにごめんなさいっ」

 頭を下げていると、ミズキさんがため息のように笑った。

「もういいから」

「ミズキさん?」

「もういいから、だいじょうぶだよ」

 だいじょうぶ。って、でも、それ。

「ミズキさん、でも、私」

 自分が次になんて言わなければいけないかもわからずに声をあげたところで、ミズキさんが息をついだ。 

「ごめんね。他の電話はいったから、またかけるよ。家は、ほんといいから。じゃあね」

 切れたと同時に、嗚咽が喉をせりあがってきた。

 もういいから。

 もういいからって……だめだ。

 どうしよう。こわい。

 だいじょうぶなわけが、ない、よ。

 悪者になりたくないのは、この罪悪感から逃れられないからだった。自分のせいで痛い思いをしているひとがいるってことに耐えられない。

 無理だよ、浅倉くん。

 絶対に無理。

 みんな浅倉くんが悪いって思えない。

 こんな気持ちでいるのは嫌だ。無視できない。どっちもいらないが正解だよ。三等分で分けて、みんな同じに痛み分けってふうにはいかないの?

 引き受けられない。こういうの、耐えられないもの。

 ううん。

 そうじゃない。

 私はきっと……。

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