3月23日 正午 75

 言うよ、と返すつもりが柔らかく口を吸われた。先ほどの余裕は厚みのある唇に弄ばれて、やさしく丁寧な愛撫を引き換えに取り上げられていた。手放すことも惜しくないと思わせるだけのいたわりがあった。私を感じさせようとする執拗さではなく、臆病さゆえのもどかしさに思えた。 

 こんなに興奮してるのに、何もかもすごくゆっくりだった。煽られているのは自分のほうで、相手の余裕が憎らしかった。言ってることとやってることにズレがある。しかも、私には黙れと言ったくせに、自分は好き放題に言葉をたれながした。耳慣れた褒め言葉でもなく、いわゆる焦らし言葉でも辱めでもなく、ほとんど恨み言のようなことばかり聞かされて閉口するつもりが、だって、とか、でも、とかいう上擦った声がもれた。

 冷淡さを詰られて不機嫌にならずにいられたのは初めてだった。いつもは心苦しさに憂鬱になるのに奇妙な陶酔につつまれた。とはいえあまりに昔のことを穿り返されると本気で反論したくなる。けれど、聞くつもりはないと言わんばかりの勢いで容赦なく口を塞がれた。ただでさえ忙しない呼吸でつらかったので制止の声をあげようと目を開ける。

 その瞬間、携帯電話から曲が聞こえた。ふたり同時に固まって、浅倉くんは舌打ちしてからものすごく凶悪な顔でジーンズのポケットに手をつっこんだ。その合間にも、私のブラウスのボタンを探ろうとしていた。私はじっとして彼のするに任せ、電話の相手がミズキさんだったりするのだろうか、とちらと想像したりした。

「いえ?」

 さいしょ、彼がなんと言ったのかわからなかった。すぐにそれが、札幌の実家だと気がついた。

「もしもし」

 彼は私に背中をむけた。よく聞こえるようにと窓際に寄ったのだ。

「え……それ、どうなって」

 うん、うん、と幾度か頭をふっていた。相手の声は聞こえなかったけれど、どうやら緊急事態だということは表情を見ないでも伝わってきた。私はブラウスをスカートに押しこみ、いつになく熱をもった身体をまっすぐに立たせた。

 なるべく、悪い予断はもたないようにと考えながらも彼が、わかった、すぐ行くから、と言って電話を切るまで緊張していた。

「姉貴と旦那が、事故ったって」

 彼はまずそれだけ言った。

「おふくろパニクってて詳しいことまだよくわかんなくて、なんか親父は温泉旅行だっていうし、とにかくオレ、行かなきゃなんない」

 すみません、て頭をさげる。そこは謝るところなのかわからなかったけれど、とりあえず言えることを言って、聞けることを聞いた。

「私、ここの留守番するから任せて。だいじょぶ。たぶん、浅倉くんより何がどこにあるかわかってるから」

 彼は私が前の店主と仲良しの常連客だったことを知っていてうなずいて、それから金庫の鍵と部屋の鍵を渡してくれた。

「メールでいいから、気になることがあったら指示してね」

 なるべく平板な声を保つようにしながら、テーブルに散らばっていたパンをビニール袋に突っ込み、缶紅茶も中に入れた。

「はい、もってって。ヒコーキの予約、こっからする?」

「や、もう、その場でか、電車んなかから」

「忘れ物ない? 病院の場所とか電話、きいた?」

 彼はそこで、私の顔を見て笑った。

「大丈夫っすよ。オレもう新入生じゃないし、センパイより落ち着いてる」

「わかってるけど」

 うつむいたところを両腕で思い切り抱きしめられた。入り口から丸見えのところで、もちろん誰もいなかったけれど、じたばたして、外、見えるから、と押しのけようとすると。

「ああもう、大好き。続きは帰ってきたらね」

 今はそれどころじゃ、と言いそうになって、口をつぐんだ。思ったよりずっと、強く抱きしめてきたから。

「浅倉くん」

 だいじょうぶだよ、と言ってあげたかったけれど、そんな無責任なことは言えない。ずっと家に帰ってないってミズキさんに聞いたばかりだった。

「オレ……」

「う、ん」

 締めつけられて痛かったのに、呻き声にならないように気をつけている自分がいた。頤に指がかかって、唇をなぞられた。今だけは相手の好きにさせようと目を閉じたところで、口のなかに指を入れられた。

 当然のようにキスされるのだと思っていた私が目をあけると、噛んで、と聞こえる。

「血ぃ出るくらい噛んで」

 一瞬、なにを言っているのかわからなかった。舌をからませると痛みを感じたように眉を寄せた。

「できない?」

 できないというか、早く、一分でも一秒でも早く出かけたほうがいいんじゃないだろうか、という頭があった。彼はたぶん、そういう表情を読んだのだろう。

 もう、しょうがないなあ、と口にして指を引き抜いて鎖骨のうえを撫でた。すこし屈んで、首のあいだに頬を入れ込んで囁かれた。

「痛くするよ」

 唇が落ちた場所に熱がこもるのを感じた。次の瞬間には、前もって用意された言葉の威力もむなしく、私は思い切り声をあげた。

「いたっ、痛いって……」

 齧った! しかも齧ったとこ、舐めた。押しのけようとすると、バンソーコーある、と抱かれたままきかれた。

「あるけど」

「貼っといて。服、汚れちゃうから」

 涙目で見あげると、目じりに唇が落ちた。

「ごめん。ミズキにはオレから電話するから、連絡しないで」

 うなずくべきだと思ったけれど、そのまま頤をとらえられて今度こそ、キスされた。だいぶ、慌ただしかった。

「じゃ、電話するから。あと頼みます」

「うん。気をつけて」

 扉のところで立ち止まり、それ以上、見送るのはやめた。左手をあげた後姿が消えると、予想よりずっと落ち着いた足音が続いた。一段飛ばしでかけ降りていくかと思ったら、ふつうに歩いていったようだ。

 ふう、と吐息をついたところで、鎖骨に生地がかすれたらしく小さな痛みがはしった。

 血が出るほど齧るかな、ふつう。

 噛み癖注意の犬みたいだ。そう思うとすこし、笑えた。

 それから、なにかわけのわからないものに、浅倉くんのお姉さんと義理のお兄さんの無事を祈った。助けて、というのはこういうときに使う言葉だと思い知る。

 藁張りの椅子に腰かけると膝の力が抜けた。テーブルに肘をついて両手で顔をおおい、目を閉じて見えた暗闇はやたらと白茶けて、鼓動ごとに震え、うまく沈み込むことができない。意識は鮮明なのにうまく整理できず、時系列で物事を並べようとする努力は実を結ばなかった。

 どうしよう。

 もう、この瞬間に、これでよかったのか考えていた。

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