3月23日 正午 74

 手首を握っていた力はゆるんで、すぐ離れた。けれど、次を言おうとした瞬間に口に掌をあてられた。

「あぶねえ……あんたに喋らすと、オレ、絶対聞いちゃうんだよね」

 顔の下半分を掴むように覆っている左手を両手で引き剥がそうと乱暴にひっかくと、楽しそうに喉をならした。

「一生あんたの言うこと聞く覚悟だから、今だけ黙って、オレのいうこときいてよ」

 あのね、そんなこと言って、という反論はくぐもった、意味をなさない音にしか聞こえない。

「オレ、ミズキにあんたをとられたくない。あいつあれで根はすごく優しいし、あんたが初対面だっていうのにほんと楽しそうに言いたいこと言ってるの見たし、オレといるより合ってるし幸せそうだって思ったらどうしたらいいかわかんなくて、でもさっき、あんた泣いてるの見たら堪らなくなった」

 キミにも昨夜から散々泣かされたよ、と言いたいのをこらえた。しかも、私の言うことをちっとも聞いてないらしく話しはかみあってない。まったく。

「センパイはいつでも笑ってるか怒ってるか、そのどっちかじゃないとヤなんだよ」

 怒ってるって、なんだそれ。

「他の男の前で泣いたりしないで……」

 言い種に呆れた。自分ならいいんだ。ほんとにもう、なんでこういうことしか言えないんだ。という文句もどうやら無効ならしい。笑いそうになるくらい、濁った音だった。

 あんまり悔しいので掌を舌先でつついた。手は去っていったけど、唇がやってきた。このほうがまだやりようがあると判じたのが間違いだった。キスというより襲撃された。もう少しひとの呼吸に気をつかえと、キスが上手だろうという噂はウソだよと、苦いコーヒーの味を嚥下して、押しやろうとする両手を彼の首の後ろに誘導されながら思った。汗の匂いが尖っていて、なにか耳障りな、忌まわしいような金属的な擦過音が終始聞こえた。

「ずっと、好きだった……ほんとにずっと、あの頃からずっと好き……」

 ものすごく苦しそうな声でくりかえされて、切なさを訴えかけられて焦る。それでもどうにかこうにかあげていた手をおろし、肩を押し返そうとすると、

「センパイはオレのことなんて忘れてただろうけど、オレは一日だって忘れなかったよ」

 そんなこと言われても。っていうかそれ、ほんとだったらけっこうキモチ悪くない?

「うそだって思ってるでしょ? オレ、あんたのくれた絵、ヘッドボードに置いてたから」

「絵?」

 私があからさまに表情を変えたのに気づいて、彼は苦笑いした。

「写真だったら持って歩けなかっただろうけどね。紙っぺら一枚でずいぶんと縛ってくれるもんだよって、正直いうと未練がましいから捨てちまえって思ったことも何度もあったけど、ああいうのって捨てられないもんだね」

「それは……ひとの手の入ったものってたしかに捨てづらいけど、でも捨てれば、忘れて他の女のひとと結婚したりできたんじゃないの?」

「オレ、他の女じゃダメなんだよ。反応読めてつまんないし、だいたい言うこと決まってるし」

「私だって同じだと思うけど?」

 そんなに変わってるってことはないだろうし、浅倉くんに読まれていないとも思えない。

「あんたは他の女と全然違うよ」

 なんだその、確固たる自信は。

「ねえ浅倉くん、離れてる間になんかこう、私に対して間違ったイメージ作ってない?」

「作ってねえよ。つうかもう、再会してあんたちっとも変わってなくて、逆にオレが驚いたよ」

 だからそれがチガウというのだ。いくら私が成長のない人間でも十五年近くたっていて変わってないわけないだろう。たんじゅんに見た目だけでも違うよ。体形も崩れてるし肌だってあの頃のようには密じゃない。

「もし変わったとこがあるとすれば、こうやってオレに隙を見せてくれるってことだけ」

 飲んでうとうとしちゃうなんて前は絶対になかったでしょ? 寝てる間にどっか連れ込んじゃおうかと思った。そう、再会した日の失態を口にされて声をあげた。

「だって、あのときはほんとにものすごい睡眠不足で、私、酔って寝るなんて一度もしたことないし、それに動かせばすぐ起きるって」

 言葉の途中で、昂ぶりを押し付けるようにして腰を抱き寄せられた。さっきから気がついていたけれど、あらためて意識させられると反応に困る。耳が熱くなり頬が火照って気持ちが悪い。でも、あからさまな欲情の証に少しばかり余裕もできた。気が急いているのは私じゃない。おかげで、黒のⅰPodの形を認めて視線が定まった。これがボタンにぶつかって音をたてていたらしい。

「オレ、センパイにこんなことしたら、舌噛んで死にますって言われるかと思ってた……」

 このオトコ、いったい私をなんだと思っているのだ。

 もう、そう思ってるくらいなら、ひとを困らすな。慮外モノめ。

 だいたいいつも思うけど、こんな風に下半身に血が集まって貧血にならないんだろうか。脳に血が巡ってるとは到底思えない。尋常な判断ができるのかしら。もっとも、この状態で言うことがマトモなはずないじゃないかと呆れて見あげると、頤をとられた。

「言わない? オレが触ってもいい?」

「許可が欲しいの?」

「あんたがくれるもんなら何でも欲しい」

 そう、言うんだ。びっくりした。瞬きをくりかえしていると、額に唇が落ちた。

「嫌って言わない? オレ、昨日拒否られて泣きそうだった。帰すつもりなんてなかったのにイヤって言われたらへこんで退散した」

 浅倉くんが震えていた。

「あんたの怖がるようなことしないから、イヤって言わないで……」



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