3月23日 正午 73

いないのがわかっていたから言えた言葉だけど。でも、助けてもらいたかったのはウソじゃない。誰も傷つけずにいたいと願うことはこれが初めてじゃない。

 むかし、女友達にいい子ぶらないでよ、と罵られたことがある。いい子ぶっていたわけではなくてどっちも同じくらい大事だったのだと、当時の私は言うだろう。初めてのカレシだったし、クラスも部活も何も接点がないのに、なんでか仲良くなった女友達だった。

 彼女が、誰を好きなのか知らなかった。

 彼女から、自分のBFへのラブレターをどうやって渡したらいいか、またはどこへ誘い出したらいいかという相談を受けた私は、いつそのことを言い出したらいいのかわからなくて、そのタイミングをはかりかねて、しどろもどろで、手紙を握らせられそうになってやっと、口にした。それから詰る言葉にのぼせあがり、でもこれを渡したらあなたのほうを好きになるかもしれないじゃない、と言ってしまった。

 本当をいうと、私は彼女のほうがずっと好きだったのだと思う。自分から声をかけて仲良くなったのだから。でも、そのことを告げる言葉をもたなくて、そう感じることさえ覚束なくて、離れていくすらりとした後姿を見送った。

 男の子とはすぐ熱がさめた。二度、デートしたことさえ忘れたい気持ちになった。ほとんど憎むような気持ちで、自分の軽率さや愚かさを彼のせいにしようとして、そんな自分が惨めで自己嫌悪に何度か吐いた。

 頭頂部で黒髪をひとつに縛った背の高い姿と廊下ですれ違うたびに胸が痛んだ。視線があわないことに安堵しながら、あのやや寄り気味の、眉間を射るほどに艶やかな三白眼が自分をうつさないことに腹を立て、頤をあげて何もなかったようにして歩いた。違う高校に行くと知って安心しながら寂しくて、泣いた。許して欲しかった。

 もう、彼女は忘れているだろう。

 臆病さが罪だというなら、それはどうしてだろう。守るべき価値のない自分というものを、そうまでして頑なに固持する愚かさか。

 でも、私はあの頃とは違うはずだ。

 顔をあげたと同時に、頬に不躾な非難がとんできた。

「センパイって優しいんじゃなくて自分が傷つくのが怖くて汚れ役がイヤなだけじゃん」

 その通り。認めてしまえば、言いたいことはひとつだ。

「じゃあどっちもいらないから! 男なんていなくても生きてける」

 反射的に叫ぶと、彼がこちらを見た。

「生きてけるのは知ってるよ」

 きゅうに、声の調子が変わっていて、私は身を竦ませてそれを聞く。

「じゃあオレが悪者になってもいい?」

 それが、何を意味するのかわからないわけじゃなかった。

「全部、オレのせいにしなよ」

「あ……」

 後ろにさがろうとして、食器棚に背がぶつかった。振り返る肩先をつかまれてキスされながら、これでいいのか、この先どうしたらいいのか考えていたら、頬をはたかれた。

「考えるなよ。どうせ無駄だから」

 痛みより驚きで、息がとまった。かるくとはいえ、誰かに手をあげられたことは一度もなかった。熱をもった頬に手をあてようとすると、手首をつかまれて掌を舌で舐められた。自由な右手ではたき返そうとして、どうせならちゃんと殴れよ、と嘲笑された。

「あんたになら何されてもいい」

 躊躇したのが間違いだと、次の瞬間には悟った。やめて、やだ、とくりかえし言うことで、罠にはまる気持ちになった。ひとのせいにするなんて、そんなはしたないこと、そんな淫らなこと、自分にできるなんて思わなかった。

 いいから黙って、聞こえるよ。そう囁かれて、ここがお店で彼の仕事場だと思い出す。どうせいつも二時過ぎまでお客こないけど、と彼が続けながら、胸のうえに手をおいた。

 ひきはがそうとしたところで、さすがにここで最後までしないから、とこたえられた。ほっと息を吐いたこめかみに、でも全部触らせて、ときた。

 瞳が合うと、目、閉じてなよ、そのほうが楽でしょ、と瞼のうえに唇が落ちた。鼻先を掠めるくたびれた革の匂いに混じった、妙に清潔なボディソープの香り。そのアンバランスさに眩暈がした。くらりとしたのは気のせいじゃなく、担ぎ上げられるようにしてダンボール箱の積まれたバックヤードの奥の壁へと押し込まれた。

 なるほど、いくらでもできたというのは誇張じゃない。私は荷物か、と胸うちで悪態をついて文句を言おうと顔をあげると、両手首をひとつ手に掴まれて肩の横の壁にかためて押し付けられた。え、と思う間に後頭部のすぐ脇に掌をつかれ、その音と衝撃に本能的に竦みあがる。

「ちょっとは悪者らしくしないとね」

 こめかみに掠れた笑い声が落ちた。私の右肩を壁に寄りかからせたまま右腕を胴にまわし、背中から覆いかぶさってきた。やたら窮屈な体勢に抵抗する、その身体の動き全部を封じるのが目的だと知れた。後ろに回られては股間を蹴り上げることもできそうになかった。いつものブーツなら傷をつけてもいいだろうとヒールで思い切り踏みつけてやろうかと考えた瞬間、踏めば、と囁かれてこちらがぎょっとした。

「あんた軽いから大して痛くないよ。それにもう、何されても手に入れるって決めたし、抵抗しても無駄。叫ばれたら口塞ぐし、オレもう我慢しない」

 いつもの調子で飄々と口にされながら、力が抜けた。

「それじゃレイプだよ……」

 言葉の過激さに怯むかと期待したのに、

「だから悪者だって先に言ってるんじゃん。オレが怖いなら遠慮しないよ。それに、戦争とおんなじなんでしょ? 何でもアリだよ」

 揚げ足を取るな。思い出したよ、ボケのふりして相当激しいツッコミを入れるのだ。ならばこちらも本格的に臨戦態勢をとる。

「私、こんなふうにされたいって思ってるように見えるの? 浅倉くんにとって、こんなふうにしてもいい女なんだ」

 え、と背中で戸惑ったすきに言い継いだ。

「男ってみんな、誰も彼も考えてることが同じ。やれば、自分のもので安心できるんだ」

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