3月23日深更 53

 自分の声が、かなり尖っていることに気がついていた。彼がわざとらしいほどのため息をついたくせに何も言わないので、私のほうが口を開いた。

「教室で堂々と男の子たちにブスって言われたことだってあるんだから」

「そう言われても、そのうちの誰かは君の気を引きたくてそう言っていたことくらい、君は知ってたはずだ」

 喉奥に襲いきた不快感に相手の顔を見返した。声が震えないようにできるか不安だった。

「……そうね。許せなかったのは、ブスだって罵られて囃し立てられることじゃなくて、ブスのくせにって言われることよ」

「それならわかる。女のくせにカラードのくせにクィアのくせに……それは既得権を脅かそうとする優秀な劣位者への威嚇だからね。しかも女性へそう言うことは、君のいう防御を破壊することで、被害者・被差別者へと無理やり落とし込まれることだ」

 ミズキさんがかるく前髪をはらってこちらを見て、十分に間合いをはかりながら告げた。

「そうして貶められないためには相手を魅了することだ。それができれば立場は容易に逆転する」

 立場を覆せるほどの魅力があったとは思えない。小学生の頃の私は痩せて妖怪のように肌のざらついた野暮ったく気の強い可愛げのない子供だった。女の子らしくしなさいとよく母親に叱られていた。

「あのね、ミズキさんにはそれだけのことができたかもしれないけど、私は違う。私、子供の頃はアレルギー体質のせいか腕とか足とか鮫肌でガサガサしてたの。それをからかわれて意地悪言われるのすごくイヤだった。でもたしかに、そうやって心無いことを言って苛められた相手に中学生になって告白されたこともある。復讐心でふったわけじゃないけど、相手はけっきょく変わらなくて、なんで断るんだよって、それこそいい気になるなよっていう言い方をしてきた」

 彼はすこし考えこむようなそぶりでうつむいたけれど、けっきょくはただ肩を揺らして首をふった。それから一言、

「ほんとに復讐するつもりじゃなかったの?」

「BFがいたの」

「でも、馬鹿にしてなかった?」

 見破られて口をつぐむと、彼は忍び笑いをもらした。

 参ったな。降参する。

 物心ついてからずっと、こんな私でもイイと思う異性がその時々にいることが不思議だった。感謝もしたけど馬鹿にもした。いや、ほとんど軽蔑していた時間のほうが長いかもしれない。とても立派な、卑屈であることの証だと思っている。

「ま、それはその男のほうが悪いと言っておくよ。話を戻そうか。子供の頃に君が後をつけられたりしたことは、僕から言わせれば、そんなに後ろめたく思うような出来事じゃないと思う」

「ウシロメタイ?」

「そう思ってない? 機転もきく子供だったろうに、周囲の大人に助けを求めてない」

「そこがいわゆる子供っていうか……それに結局はだって、何にもなかったし」

「でも捕まってからじゃ遅いっていう認識くらいあったでしょ? まだ当時はロリコンなんて言葉は聞かない時代だったかもしれないけど、だからこそ、ませた女の子だった君には我慢ならない、隠匿すべき出来事だったように思うよ」

 たしかに、まさに子供だというのにそんな目に遭うのが、ひどく不名誉なことだとは感じていた。すれ違い様に卑猥なことばを囁かれるようなことさえも、どうしてか、子供のときにあった。というより、大人になってからはナイ。ちゃんと生理が来るようになった高校生のころから被害にあわなくなるというのも妙なものだ。文字通り幼くて、無防備だったのだろう。

「かわいかったから嫌な目に遭ったって思うのも癪だろうけど、そう思ったほうが気楽じゃない?」

 僕は自分でそう思うことにしたんだ。

 つけたされた言葉が反論を封じるためのものではないことに、顔をあげた。彼は首を傾けて私の目をまっすぐに見た。

「僕、ポルノって見ないんだよね。子供のときに写真撮られたことがあって」

 児童ポルノという恐ろしい単語が胸に食い込んだ瞬間、ミズキさんがかるく笑った。

「ああ、きっと君が想像してるようなものじゃなくて、近所のお兄さんに悪戯されちゃったってだけの話。しかも僕、けっこう気持ちよくって自分から積極的に通ったりしちゃったんだよね」

 私がどう受け止めていいのかわからなくてじっとしていると、

「たいていのポルノって肉体的快楽に主眼をおいてなくて僕には不愉快なんだよね。そのお兄さんの場合は自分も彼を好きで気持ちよくて愉しかったけど、女のひとや子供の場合、そうじゃないことのほうが圧倒的に多いよね。僕はそういうときも運良く逃げ出せたからいいけど、その時になって写真に撮られたことなんかを思い出してぞっとしたし、セックスがお互いの身体を擦り合わせて気持ちよくなるだけじゃなくて暴力や支配や所有欲やその他色々な要素が含まれていて、その余計な配分のほうが多いことも理解した」

 ほんとに何でもないように語っていた。たぶん、彼は何もかもをわかっているのだろう。イタズラって言葉ですまされることじゃないと、そうわかっていても、私の気を楽にするためには、今はそう口にするしかない。それにさえもうまく反応できないでかたまっていると、彼が続けた。

「僕はわりに早く、〈われは欲する〉っていう感覚を理解したほうだから自分でどうにか整理がついたしもう逆らえないって納得したけど、女のひとは〈彼は欲する〉から抜け出すのが難しいよね。女性を前にして思慮分別のないことばで申し訳ないけど、本音でいうと、僕だったら到底やってられない。娘と妻と母親とそれぞれ違う役割を社会から規定されていて、ある時期からは性的な魅力で異性をひきつけないといけない側面と、拒絶すべき面がある。君が言うところの、そんな複雑怪奇な戦略を、月ごとの出血の合間にとり続けないとならないなんて耐えられないと思う」

 私も、ぜんぜん、耐えられない。っていうか、耐えてないよ。そう、言いたくなった。

 それにしても、すごくはっきり言うなあ。他の男が口にしたら顰蹙だけど、ミズキさんだとなんでか許せた。この綺麗な顔のせいかしらと見惚れていると、不意打ちのように、指先で頬をつつくような声で問われた。

「姫香ちゃん、かわいいって言われるの嫌いでしょ」

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