3月23日深更 52

 もちろん自分も、と思いながら目を閉じた。

「学者風のおじさんに展示物の説明してもらったり券売機に並んでると招待券をくれるご夫婦がいたり親切にしてもらうこともあったけど、そうやって優しくされるだけじゃなくて、おかしいなっていうときもあって」

 ミズキさんの視線を頬のあたりに感じた。でも、目を開けないで、暗闇のなかに自分をおいておこうと決めていた。

「子供がひとりで来てるから珍しいのかなって思ったけど、そうじゃないんだよね。何か買ってあげようかって近づいてくるオジサンとかオニイサンがいて、ほんとに子供好きなひとと、何かがチガウんだよ。それでも、いりませんて言うとたいてい離れていくんだけど、たまにそうじゃないひともいて」

 並んでいる横にそうっとにじり寄ってきて手をつかまれそうになったこともある。睨み返すと周りにひとがいたせいか、一人でエライね、と乱杭歯を見せて頭を撫でようとするので飛び退って逃げた。ちゃんとした背広を着て、どこといっておかしなようすもないのに、だからこそ気味が悪かった。浮浪者とか露出狂とか虚ろな目でモゴモゴ言ってるひととか、見るからに怪しい、ヘンなひとだけが危ないわけじゃないと知って愕然とした。

 びっくりするくらい遠慮のない視線の持ち主もいた。たいていは、こっちが振り返ると見ていなかったってふうに目を背けるのに、その相手はそうじゃなくて。

 上野の西洋美術館を出て、いつもなら近寄ってみるロダンの彫刻のある広場を歩きながら、振り返ったらダメだ、と帽子のはしを持ってまっすぐ前をむいた。公園口の信号につかまったときには心臓が鳴っていた。走って渡ってしまおうと思うのに、そういうときに限って親子連れが手をつないで前に陣取っているのだ。後ろを振り返っても姿がなくてほっと息を吐いたときだった。すぐ左後ろに、ガッというアスファルトを蹴る足音が聞こえた。見なくても、わかった。帰りの切符を入れておいたポシェットの裏のチャックを開ける手が震えていた。ホームまでついてこられたら、もう終わりだと思った。鋏を入れる駅員さんの、いつもは超人的だと思う手振りももどかしく、切符を奪い取るように改札を抜けて、たまたま発着寸前の電車に飛び込んだ。

 扉に寄りかかった途端、背中がひやりとした。私は走っても汗をかかない子供だったのに、ブラウスの背が湿っていた。

「……まあでも、べつに、触られたわけでも何でもないの」

 彼は怪談を聞かされている女の子のようぎゅっと目をつむっていた。私があわてて名前を呼ぶと、ようやく息をついて、すっと頤をあげてこちらを見た。

「あんまり間を取らないで……心臓に悪い」

「ご、ごめんなさい」

 ううん、と弱々しく、首をふられた

 話してしまえば、たしかに何でもなかった。

 だって、何にもなかったんだから。なんでこんな大したことじゃないことを、今まで誰にも話さなかったんだろう。そう思って肩で息をついたときだった。

「姫香ちゃんて、子供の頃からかわいかったんだね」

 いつもなら曖昧に聞き流すか笑ってお礼をいう、ふわりと軽い、なんでもないお世辞に癇がたった。

「それはない。着てた服は可愛かったかもしれないけど。私、可愛いとか美人とか言われたことないから」

 ふだんは弟とおなじ服を着ていたくせに、お正月には晴着、よそ行きには裾の広がったお下がりのワンピースに髪を編んで大きなリボンを結んでもらう娘だった。今でも自分は女装をしているのではないかと感じることがある。服をくれる従姉は赤ん坊のころから結婚まで節目節目で写真館のウィンドーを飾ってきた美人で、同じ服を着た自分がいまいちパッとしないことくらい否応なく気づくというものだ。

「すでに僕がなんども言ってるのに、ないわけないでしょ」

 ミズキさんは自分の言葉をカウントされなかったことが遺憾なのか、柳眉をひそめてこちらを見定める視線だった。

「それは、私を好きだっていう奇特なひとの世迷い事か、あとはまあ他に言葉をさがすのが面倒なひとの社交辞令だよ。親の前でかわいいってほめて罪悪になるほどブスではないっていうだけ」

 我ながら情け容赦ない言葉だけど、とある友人がもらした本音だ。美醜の問題で愚痴るのは自他共に認める美女の前でしかすべきではないと、そのとき知った。

 居心地の悪くなるようなお世辞なら言われないほうがマシだと白状するのは勇気がいる。彼女は私のことばを止めたかったのだろう。フカマチは小柄で守ってあげたくなるタイプだもの、彼氏いるしね。

 そういう彼女は背が高くがっしりとした体型で、その骨格にあう、化粧栄えするだろう端正な顔立ちをしていた。小作りで野暮ったい造作の私と違い美人だと思っていた。美女というのは往々にして男顔だし、私は自分の審美眼にけっこうな自信があった。そして実際、大人になってからは、あれ誰、とクラス会で囁かれるモデルみたいな美女になった。ほら私の言うとおりじゃないと鬼の首をとったように自慢したいところだけど、当時中学生だった私は弱い声でしかそれを告げられなかった。お互いに大人になるのは果てしなく遠い未来だと思っていたし、彼女のほめ言葉のような断罪に自分の無思慮を恥じて、声が途切れとぎれにならないようにするだけで精一杯だった。

 彼にはとうてい理解できない感情だろうと思うと八つ当たりで愚痴がもれた。

「ミズキさんみたいに生まれついて綺麗なひとには絶対にわからないよ。もう、ほんとに美人じゃないってツライんだから」

「そうかなあ。だって姫香ちゃん、そんなに辛い体験してるようには見えないよ。ぜんぜん卑屈じゃないし」

 美男美女というのは一般に、おそろしく屈託がない。なのでこういうことが平気でいえる。開き直って、私も本音が出た。

「卑屈だよ。卑屈に見えないように努力することをそういわない? 美人じゃないのは百も承知だけど、どうしようもないほどブスではないって思いたいの。それが最低の自負心で、これでも努力してるの。女は髪・衣装・化粧である程度はどうにかなるものだし、自衛手段だもの」

「でも、ひとりでいたって親切にもされなきゃ、なにか買ってあげようかって言われることもない女の子もたくさんいると思うけど?」

「何が言いたいの」

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