3月23日深更 51

私は、別れた奥さんとやりなおすと頭をさげた元カレが凄くすごく、羨ましかった。おいおいと思いながら、そんなに誰かを好きになれるなんて素晴らしい、マニュフィーク! と、心中で叫ばないではいられなかった。

 ずっと、穏やかな優しいひとだと思ってた。もうオジサン入ってて、私に対しても従兄のお兄さんみたいな感じで、でも、それは慎みなく言うととても、トテモ気持ちがよかった。私の取り扱いの巧さでは、間違いなく歴代一位だと思うほどの居心地よさだった。

 なにしろ自由だった。好きにさせてくれたのだ。

 でも、それって実はただ愛されてなかっただけなんだと気がついてから、さすがにひどく落ち込んだ。愛されていない事実だけでなく、世の中や男女のことを何にもわかっていない自分のバカさ加減に、だ。

 彼を好きだという純粋な気持ちだけで結婚したいわけじゃないと自覚していた。それで打算的に物事を上手に進められればかっこいいかもしれない。私はそこでいつも愚かに失敗してしまう。

 いつになったら賢くなれるのだろう。賢いはもしかすると、生来のものかもしれないから、じゃあ――いつになったら「大人」になれるのか。

「ミズキさん」

「ん?」

「大人になるってどういうことだと思う?」 

「自分より大事なものができるってことじゃないかな」 

 一瞬の間もなくこたえられてしまった。私はかなり、驚いていたようだ。彼のほうが目を大きくしていた。

「その問いに即答する?」

「僕、ずっと小さなときから早く大人になりたいって思ってたもの」

「ほんとに?」

「うん」

「ミズキさんてじゃあ早いうちに大人になったんだ」

 なんて立派なんだろうという気持ちで褒め称えようとしたのに、彼はうっすらと微笑んでゆるゆると首をふった。

「さあ、それはどうかな」

「どうかなって」

「さっきのが理想だとしたら、現実的には、親元を離れて新しい家族をつくるってことじゃないかと思う」

 中学生のときに同じようなことを言っていた子がいた。自分だけの、新しい家族が欲しいといつも口にしていた。みんなまだBFができるかどうかという年頃のことだ。一足飛びすぎてわからないと思いつつも、彼女がすごくそれを望んでいることだけは感じた。成人式のあとの集まりに赤ちゃんを連れて来て、とても幸せそうだったのをよく覚えている。

「僕は早く家を出て独立したかったんだよね。でも、いざとなったら独りでがらんとした家にいられないし祖母以外の女性とは暮らせないはで、開きは大きいよね」

 自嘲する横顔に思う。誰かの庇護下で自由にならないことを厭えばひとはその環境を脱する。子供時代を楽園だと仮定して、そこから先にすすむのが自然な成り行きであれば幸福で、望まずに大人になれば不幸だと、かんたんに言えることでもない。少なくとも、そう単純にわりきれるのは虚構のなかのみで通じるお約束だ。

 そういうセオリーのないとこでやってくのが、「現実を生きる」ことだとようやく気がついた私のような人間は、じゅうぶんにオメデタイのだろう。

「でも、それってあんまりにも核家族対象じゃない?」

「うん。だけど今の僕たちのような都市部に住む結婚したがらない人間にとっては、現実的な回答じゃないかな。まさにネオテニーよろしく性愛だけは楽しめる成熟した身体をもっていて、でも責任を負いたくない。けっきょく死ぬ準備ができてないから子孫なんてものを残せないんだよ。自分が遺伝子の乗り物だっていう自覚がなくて、個としての快楽の追求ばかりでしょ? そうこうしてるとすぐに介護だなんだって家を出られなくなるっていう現状じゃない?」

 どこにも反論はつけくわえられなくて、曖昧に微笑んでしまった。

「浅倉くんだったら、なんてこたえるかな」

 ミズキさんは思いきり、形のいい眉をしかめてみせた。

「それ、僕にこたえろって言ってるの?」

「いえ、その、べつにこたえてほしいってことじゃないんだけど……」

「姫香ちゃん自身は、自分についてどう考えてるわけ?」

 それを訊かれると弱いのだ。

「いちおう、理想はあるんだけど」

「じゃあ、それを言いなよ」

 そうやって詰め寄られると、恥ずかしい。

 私は無言で、相手の顔を見た。それにしてもミズキさんてぜんぜん瞬きしないんだよね。目、乾かないか心配しちゃう。って、ああもう、私ってば言いたくないんだなあ。

「浅倉のことがそんなに気になるなら、なんで逃げ回ってるの」

「逃げ回っては……」

「どう考えても本来なら彼がここにいるはずじゃない?」

「ミズキさんがひとりでいたくないってごねたんじゃない」

「そうだけど。姫香ちゃんが浅倉のこと嫌いだとは思えないんだよね」

「それ、本人にも言われたよ」

 お互い同時に吹き出して、それから、なんとなく目を合わせづらくてしばらくどちらも動かなかった。それはでも、なんだかとてもしずかな感じで、嫌いじゃなかった。

 そう思ったのが伝わったのか、彼がやわらかな笑みをうかべた。

「どっちにしても僕に話したくないんなら、それでいいよ。君のことを想っていろいろと聞き出そうとしてるけれど、そう言い訳してるだけで、姫香ちゃんの傷を見たいっていう僕のエゴはたしかにあるし、たとえ君のためになるのかもしれなくても話すことを強制するのも間違ってると思うから」

 あまりにも素直に認められてしまって、ほぼ反射的に、なんだかお告げのような感じで、言葉が口を飛び出していた。

「子供の頃、男のひとに後をつけられたことがあるの。私、ひとりで美術館とかデパートの展覧会によく行ってて、自分で言うのも変だけどけっこうしっかりしてたから、親もなんの心配もしてなかったと思う」

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