3月23日深更 50

 一方的な被害者意識というのに厭きあきし、それと同時に自分が容易に加害者になりうる状況が用意されていて、さてと、一体どちらから世界を眺めたらいいのかと問いかけると、それは実は、一方的に弱いもの、劣ったもの、虐げられたもの、そういう立場からのほうが正しいのではないかと感じることがある。

 もちろん、正しいという感じ方もまた、ひどく驕ったことだと思っている。でも、どちらとも言えない場合は、そのほうが「健全」なような気がする。強さにはいつでも、油断ならなさがつきまとうから。そしてもちろん、弱くても、相手を傷つけることは容易にできるのだ。だから、困る。すごく、困る。

「姫香ちゃん、どうせだからもっと自分のことを話してみないかな」

 彼は懇願する目付きで続けた。

「冷静に判断して世間と照らし合わせて相対化するのもひとつの方法だけど、今はでも、怖い厭だっていう、まずは原始的なところから始めようよ」

 首をかしげると、彼は瞳を伏せて続けた。

「人間はきっと、さいしょはノーって言うのが普遍的な反応じゃないかと思うんだよね。泣いて生まれて笑って死ぬのが、理想じゃないかと思ってる」

 それは、わからなくもない。

「ねえ姫香ちゃん、話すと楽になるっていうのは、話せる段階まで自分の内側で整理がつけられたことだって君はきっと知ってるよね。自分の傷さえ大事にして隠すようにとっておかなくても、君のかく絵に、もうそれはちゃんと出てる」

 ウソと言いそうになって、口をつぐんだ。ミズキさんは本当のことでしか、生きていない。少なくとも、絵のことについては絶対に嘘をつかない。

 意識を集中しなくても、探るべきこたえはすぐに見つかった。女性性の忌避っていうやつにあたるのか。

 こちらが何かを得て呼吸を変えたことに、彼はすぐに気がついた。

「姫香ちゃん」

「だいたい、そういう名前をつけた親が悪いと思わない?」

 ミズキさんは笑わず、うなずきもせず、ただ続きを待った。憎らしいくらい立派な聞く姿勢だった。こっから先は誘導するつもりがないのだと、わからせたかったようだ。

「私、生まれる前に男の子の名前しか用意されてなかったのよ。なんか、母の顔がきつかっただかお腹蹴る力が強かったとかいって、父方のいとこが女の子ばっかりで、父は末子で結婚も遅かったからすごく期待されてたらしいの。それで一姫二太郎っていうくらいだから姫香でって感じだったみたいなの」

 事実、そうとう癇のきつい子供だったことは間違いなくて、母のおなかにおちんちんを置き忘れて生まれてきてしまったのだと口にされた。つまり、弟のほうが心優しく思いやりに溢れ、おとなしくて可愛く生まれてきた。

 いくらか割り引かせてもらいたい。大概、息子というのは家族にやさしいものだ。いつか家を出ていくさだめの娘は醒めていて、座りが悪い存在だから。

 といって、娘で悪かったと思われていたわけでもない。男親は娘が可愛いという伝説はどうやら真実らしい。門限付きで厳しく管理される一方で、十六歳でアメリカにホームステイする贅沢も許された。結婚しろと言うのはもっぱら母で、父親はそんなことは一言も口にしない。それはそれで問題だと思う。

「でも、母方の家では初めての、しかもたったひとりの女孫なわけ。祖父母はそりゃもう大喜びで、それこそほんとにお姫様扱いよ。父はサラリーマンで借家住まいだってのに、お雛様は七段飾りだし、七五三の七歳のキモノは誂えで、しかも本裁ちでつくったの。それを十三参りに肩上げして、十九の厄除けに桃割れ結って中振袖として着せられたくらい女の子らしく育てられた」

 彼は驚いたふりで片眉をあげてみせた。だいぶ古風だと思われたのかもしれない。

「どうも、そのあたりに矛盾があるよね。私、すごく活発な子だったから女の子らしくしなさいって言われるの大嫌いで男の子になりたかったくせに、ひとにちやほやされるのは大好きなのよ」

 そこではじめて、僕も褒められるのは大好きだよ、と口にして笑った。

「私、家では男女の別があって当然っていう育てられ方をして、一方で学校はもう、女の子なんだからおとなしくて可愛ければそれだけでいいとは言われなくて、人間的にデキルことを要求される。それで、どこかで微妙に人生戦略のズレがあらわれてくるんだよね。こういう社会って男の子には相当つらいプレッシャーがあると思うけど、それを辛いと感じないでいられるなら、わりにシンプルで上手な生き方があるような気がする」

 年齢や場所によって、私に求められるコードやルールが違う。そこに外れない限りは大事にされて愛されて褒められた。

 でももう、ある年齢以上になって、結婚できないというただそれだけで、私は何かを踏み外したのだと感じていた。あると思っていた渡し板がなくて工事現場から転落するように、高笑いしたくなるほどの勢いで、何かを踏み抜いて落ちる愉楽に酔っていた。

 影でこっそり笑いながら、ほんとは結婚なんてしたくないという言葉を飲みこむのに苦労した。結婚するかもしれない相手がいるだけましだと信じるひとたちの手前もあった。とはいえ、もう若くない女で未婚で大した職にもついてなくて、そうして軽んじられ続けるのはけっこうシンドイ。誰かの奥さんにならず、誰かのお嬢さんじゃなくなるというのは、楽なことではない。

「私、自分が結婚できないだろうって思ったこと、実はなかったのね。いま思えばバカなんだけど、十代二十代ってずっと彼氏はいたし、まあ適当にどっかで手を打てば結婚のひとつやふたつできるに違いないって愚かしいことを考えてた」

 そこで初めて、ミズキさんがなにか言いたげな表情をした。まあ、それはほっておこう。今は、四十の声が聞こえるのに独身女な自分を回想するときだ。たぶん、私のようなひとは多いのではないかと周りを見ても思う。

「でも、本当をいうと私、結婚したいんじゃなくて、結婚できない自分が嫌なだけだから、もう今はぜんぜん、どうでもいいの。何かができないっていう、みんなできてるのにそっから自分が外れてるってことが、それが怖くて嫌だっただけだから、もう、そんなことくらい、この年で美大も出てないのに絵描きになるなんて勘違いなバカらしいこと決めちゃったんだから、そう思うとなんでもないなあって」

 彼はまた、すこしだけ眉を寄せていた。言いたいことがあるなら言えばいいのに。そう思ったけれど口には出さなかった。もちろんここでまた結婚してくれと迫られたら困るし、そうしたら話はここで終わってしまうから彼は言わないだろうけど。

 それにしても、結婚して異性に自分の居場所を用意してもらえばそれで人生アガリじゃないことを、今の私はよく知っている。友達が、そして私の元カレがそうであるように、けっきょくは何であれ、日々の弛みない努力で獲得していくものだと、みんながちゃんと証明してくれている。

「思春期の頃に、誰かすご~く好きな男の子に好きだって言ってもらえたら自分て絵をかいたりしなくなるんじゃないかって、そういう妄想をしたことがあるけど、この年になってもやめないで続けてるってことは、レゾンデートルだかアイデンティティだか知らないけど、そういうのって、けっきょく誰にも何にも保障されないものなんだね」

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