3月23日深更 49

 ないよ、ない。そんなのふつうに暮らしてて、あるわけないじゃない。

 でも、その、なくて当然だと思うことが、そう思えてしまうことが、自分の幸福なのだということは知っている。

 世の中の悪意や悲運、その他もろもろ、この世の底を覗き見るような体験をしたことがない。でも、そういうものがあることは知らないわけじゃない。

 それはいつも、ひっそりと、自分のすぐ左斜め後ろくらいにあって、気がつくと皮膚に触れそうになることがあるくらいのそばで、生温かく、またはなにか火傷しそうに熱いもので、完璧に無視するにはいかないけど、でも、どうにかこうにか振り切るようにして呼吸を整え、前を向いて、粟立ちそうになる肌を自身で撫でて、何もなかった、何も見なかったし聞こえなかった、私はそれを知らない、知らないでいたいとつぶやいて、くりかえし言い聞かせ、胸が上下する浅い呼吸をしずめ、顎をひき、とにかく自分の見たいものだけ見ようと、目を、開ける。

「姫香、ちゃん?」

「なんでもない。ごめん。私にはたしかに、そういう経験はないから」

「何か、あったんだね」

「なにもないよ」

 ミズキさんがこちらをじっと、息をひそめて見つめていた。その、いたわられている瞳に、わけもなく苦しくなった。私がそれで立ち上がると、彼はすなおに手をはなした。

 振り返ると、彼はそこに座ったまま私を心配そうに見あげていた。追いすがる視線に苛立ちながら私がソファに腰かけたところで、彼が問いかけた。

「ほんとに、何もなかったの?」

 ないから、と繰り返して否定してみせて、これじゃ逆効果だとわかっていた。でも、黙っているとこわかった。ミズキさんに何もかも見透かされて、もっと大きなものがやってきそうな予感を連れてきた。

「ミズキさん、私」

 難しい顔をして、ミズキさんがゆっくりとうなずいた。息を吸い込んで、もう一度くりかえそうとしたところで、姫香ちゃん、と名前を呼ばれた。

「でも、君は傷ついている」

「いいえ」

 言下に否定した私にむけて、ミズキさんはごく整った横顔を見せながら語りはじめた。

「僕の姉はね、高校生のとき通学電車で、スポーツ新聞や週刊誌の、その手の記事を読んでいるオヤジの股間に単行本を落とすのが趣味だった」

「は?」

「なかなか狙い通りにアタルことはないみたいなんだけど、公共の場であの手のものを読むのは公害だって思ってたらしいね。たしかにああいうのは無作法だと思う。書店でのポルノのオープンな扱いやAVのチラシの投げ入れなんか、僕だってむかつくもの。さっきの、小鳥さんのマンガを僕に貸してくれた女の子も痴漢にはそうとう腹が立って悔しいって地団太踏んでたけど、本当のところ怖かった、嫌だったって」

「そうじゃない」

「姫香ちゃん?」

「悔しいも怖いも嫌だも、変わらないよ。そう言って認めてしまえば先はないの。先は、ない。それはたとえば、父親や兄弟や、または夫や恋人に守護してもらえばすむっていうことじゃないの。それは病気や事故や災害と同じ、避けようがあるような、ないようなものと似ていて、誰かに依頼して、依存して、なくなるようなものではないの」

 彼は、私に続きを促すように瞳を合わせてきた。

 傷ついていると言われた時点で、イエスと口にするべきだった。傷つかずにいられるひとなんていないでしょうと、一般論をこたえればよかったのだと今さらに思う。それができなかった時点で、私の負けだ。だから、息をついて、誘いにまかせて言葉を連ねた。

「高校のときに、学校のちかくで女の子が行方不明になったの。違う高校の子だけど、私、彼女が浚われたあたりを通ったことが何度かあった。だって一キロも離れてないところだったから。いやな考えだけどすぐに、自分じゃなくて、友達じゃなくてよかったって思った。助かったって、感じた。でも、そういうふうに感じてしまうこと自体がすごく、いやだった。自分の知らないひとなら酷い目にあってもいいって認めてることでしょ? それにね、その子のことを思うとなんともいえない気分だったのに、運がよかったってなにかに感謝しながら、自分がじゃあ、何かに守られているっていう保障はなにもないって思った。ほんとはそんなことがあること自体が、そこから間違ってるって思ったの。

 でも、現実問題、誰も頼りにならないもの。生きていく間、自分が何かを損なう瞬間がいつなのかはわからないし、ミズキさんが言うように、そういうことが在るというだけで、私はとても怖い、イヤな思いをして、それは誰にもどうしようもないことなのに、私はなにか、いつも何処かに、そういうものがないところがあるんじゃないかって、そういうところがあればいいって願ったりするの。

 それは性的なことだけじゃなくて、その一切はチカラっていうものに関係した欲望で、私にもそれをふるうことのできる瞬間がたしかにあって、自覚できる限りはそれを理解したいけど、でも、なかなかうまくいかない。そういう連鎖のなかに自分も間違いなく位置していて、そこから抜け出せないってことはわかってる」

 だから、あんなふうに浅倉くんがいくら心配してくれようと、現実はなんにも変わらないのだ。

 派手で露出の多い服を着ていれば被害にあっても仕方がないと考えるのは男の勝手な論理だ。どんな人間であろうと、他人に貶められていいはずはない。根本で、食い違ってるのだ。それに、そういう格好をしていなければ絶対に、間違いなく、被害にあわないっていう保障があるわけじゃない。

 ミズキさんは微動だにせず、それから、とさらに話すように口にした。意識して大きく息を吸い、続けた。

「前にミズキさん言ったよね。自分はカラードでゲイでって、それと同じで生物だから個体に序列と優劣があるのはあたりまえ。利己的遺伝子よろしく、私も我欲ばかり。なのにわけのわかんない理想郷みたいなとこを夢見ちゃうって、どういう精神なんだろうって思うの。しかも頭ではそんなところはきっとあってもツマラナイって想像して馬鹿にしたりもする。けっこうタフで、傷ついたり傷つけられたりすることを楽しんだりしてるくせに、ふと、自分が傷ついたとき、または誰かが傷ついているとどうしようもなく意識するときだけ、そう思うことがあるの。利己的すぎて、バカっぽくて、すご~くタラナイ感じがして、我ながら情けない」

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