3月23日深更 45
実際のところ、まともに付き合うというレベルにも至らずにひとりは海外留学、次は転勤という次第になった。四国に転勤した彼は私のほうが三つ上で、深町さんは田舎に引っ込むっていう感じじゃないよね、と牽制してきた。別れを切り出されたのだと感じてうなだれた。遠距離でもいいかなあと思ったりしたのに、とプラットホームでつぶやきそうになって焦った。そしたらすぐに電話すればいい、でもそこまでしたくない。正直、二十八歳の自分が本当に彼と結婚したいと思っていたのかわからない。ただ、嫌なところを見せたり見られたりしなかったせいか逃した魚という常套句を思い出すことがある。
「姫香ちゃんて実は彼氏がいない期間てあんまりないんじゃないの?」
問いかけに、過去を延々と思い出していた私は大きく息を吐いた。
「それ、何が言いたいの?」
「君が独りじゃいられない寂しがり屋さんだとか、男なしではいられない淫乱だとか言いたいわけじゃなくて、まあそれもある程度は事実なのかもしれないけど、ほんとは迫られると断れない気弱なところを付け入られてきただけなんじゃないかなって」
ツケイラレル?
「あたってる? 気が強くて男勝りなようで、外見はソフトだものね。ちょっと押しとけばどうにかなるって思われてたと思うと腹が立つでしょ?」
「ミズキさん」
「そう、その顔みると、僕、すごくそそられるんだけど、まあ今はおいておいて。ちゃんと、嫌なことは嫌だって言って、火傷しそうな熱を抱えてることを自覚して、相手にもきちんと伝えたほうがいい。いきなり沸騰するから、男が引く」
「ひかれても全然、かまわないけど?」
「僕や浅倉はすでに痛い目を見てるからそれでいいけど、たいていの男って怖がりで弱虫なんだよ。なけなしのプライドを傷つけられただけで攻撃に転じやすい。女性より我慢できない生き物だからね」
最後だけは、やや悲しげに聞こえた。私はその間を抱えていられなくて、質問した。
「痛い目、みたの?」
「みてるでしょう。いきなり泣かされるし、前も言ったけど、姫香ちゃんのためにデビュタント計画を練っていたつもりがいきなり相談もなく決められちゃうし……それはほんとにそれでいいけど、でも、嵐にあったみたいな気分になる」
どうやら私は「いきなり」なひとらしい。連発された。
「僕は好きだけどね。他人の迷惑顧みない自己中心的でナルシスティックな姫香ちゃん」
「それ、ほめてない」
「ほめてるほめてる、すごく褒めてる。ひとの顔色うかがわないとこや、自分の好きなことしか考えてないとこなんか僕はたまらなく好き。すぐ顔に感情が出る子供っぽいところも」
「ひとの顔色、うかがってるよ!」
「それで?」
「失礼な!」
頭にきて叫ぶと、そういうところがそうなんだってば、と彼はおかしそうに笑った。
「僕もうほんと姫香ちゃんと一緒に暮らしたい。もちろん、セックスもしたい」
そんな可愛く言われても。内容がそのまんまだし、対処のしようがない。EDなんでしょ、とは言い返せない。とにかく今、ここでこの問題に突っ込むのはまずい。その手前に話をもどそう。
「だいたい私、自分の絵のことでせいいっぱいで、誰とも付き合うつもりないんだけど」
そうだ。そういうことだ。きっと、これが正しい。そう思って安堵したところで、彼が頤をそらすようにして口にした。
「これだけ一緒にいてそう言えるんだ」
あくまで軽い調子をたもった非難の声にも怯まないで続けた。
「だって、仲のいい友達ならこのくらい普通でしょ?」
「それ、すごい甘ったれて聞こえるね」
やわらかな声で蔑まれ、うすっぺらい屈辱感に沈みこみそうになった。
「僕が先月末からしてきたことが普通の友人に対する態度だって、君、ほんとは思ってないよね。ゲイだから自分の絵の応援者だからって安心して、ふられたばかりで傷ついてかわいそうな自分を甘やかして、そうやって様々な理由をつけて僕の気持ちを利用して、浅倉から逃げる理由にしてたんじゃないの?」
「私、そんなふうにひとを利用したりしないよ。もしそうするなら、ちゃんとお願いして頭をさげるくらいの分別はあるつもりだけど」
何か言い返されるかと思っていたら、彼はうすく笑みを浮かべ、うん、君はそうだね、とうなずいた。私はその隙をついて、言い訳した。
「あのね、働いてると家族より友達よりましてや彼氏より御取引先様や会社のひとと話してる時間って多くない? 一緒にいる時間だって長くて当然で……なんか私、そのノリで、ミズキさんのこと御依頼主様で、かつOJTの上司で、企画部のすごく仲のいい同僚みたいに思ってたっていうか、アート業界への新入社員みたいな気持ちでミズキさんをメンターだと思ってて……」
ミズキさんは女の子のように可愛らしくクスクス笑って聞いていたけれど、私が困りきって顔を伏せると追い討ちをかけてきた。
「じゃあその思い違いを訂正してあげるよ。君と知り会ってからこの三週間、僕たちどのくらい一緒にいたか数えてみようか」
それからは赤面の至りだった。
彼から電話がかかってきて約束し、画廊をまわり美味しいものを食べた。正確にいえばご馳走してもらった。奢られることに、なんでか抵抗を感じなかった。たぶん、父親と一緒に行くようなところだったからだ。お寿司屋さんとかお蕎麦屋さんとか割烹料理屋さん。実際、父に連れて行ってもらったお店もあった。星付きレストランでさえ女同士で行くことに躊躇いのない三十女も、物慣れぬ気持ちがしたせいかもしれない。
画廊も、若者向けの入りやすい店構えではないところに行くと、エスコートされているという気分になった。誰もが見知っている画家の絵がぽんと一点かかっていて、値段も何もついていない。少し、気圧された。でも、あの作家にしてはいい絵じゃなかったねと負け惜しみのように口にすると、ミズキさんは嫣然と微笑んでこたえた。良いのは後ろで商売するんだよ。なるほど、いかにもそれらしく魑魅魍魎な世界だと感心した。それがこのひとに似合っているとも思った。
会えば必ず服装や小物、アレンジした髪型を褒められて、長々と話を聞いてもらった。自分は行けないからと建築家の講演会に招待され、邦楽のチケットを長唄をしている母へと付け届けされたこともある。一緒に、じゃないところが厄介なのだ。どうだったか聞かせてくれると助かるんだけど。今度から優先的に邦楽関係チケットは回してもいいかなあ、招待席空けるわけいかないんだよね。そう言われれば私は大学の講義よろしくノートをとり、母から手料理を託って届ける羽目になる。
贈与というのは必ず返礼を伴うのだ。そこから抜け出すには不義理を犯す以外ない。恋愛感情だと思えばこそ、何らかの下心を察して拒絶することも可能だけど、それすら感じることを忘れていた。
「あらためて言うけど、僕と結婚してほしい」
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